話題あれこれ 2003年1月〜2003年9月

炎の対決! チャンプル・バトル
2003年9月27日




  「ゴーヤチャンプルなら私」と、昨年からその料理の腕をこ
とある毎に自慢し合っていたご隠居とすりきれ。一年の時を経
てついに料理対決となりました。時は9月27日午前11時3
0分から、場所は茅ヶ崎柳島のキャンプ場。さわやかな秋の行
 楽日和というよりも、真夏に戻ったような炎天下でありました。
                         (じゅ)





ご隠居チーム
ご隠居・山本さん・土岐さん・助っ人1名
すりきれチーム
すりきれ・さや子さん

11:30
下ごしらえ開始
いつの間にかゴーヤを刻んでいる。






  調理台には、自らの料理の調子を
上げるために持ちこんだこのような
秘密兵器が。流れる曲は沖縄民謡。







  
  ご隠居の背後では、薪割りと火おこしが急ピッチで行われる。
二人はご隠居チームです。さらにその後ろでは、すりきれチー
ムの2人が食材を選別中・・・・。              




ゴーヤを刻み終わる。




左:さや子さん。右:すりきれ。




次の具、肉に取り掛かる。
            




 同じ頃、すりきれはゴーヤを持ってい
る。これから刻みに入る。      




山本さんは料理の前に火をおこす。
                



 さや子さんは挽肉、小麦粉、玉子をこ
ねている。             





かまどの番をする土岐さん。




  山本さんの包丁さばき。パプリカを刻  
んでいます。このまな板の右隣を見ると・・・・




玉子に浸したお麩。
         




  ご隠居はすでにゴーヤチャンプルの下
準備を終えていたのでありました。  




  さや子さんはゴーヤにこねた挽肉を詰
めています。           




  手持ちぶさたなご隠居。視線の先は、
相手チームか?          



 土岐さんさんは火が心配? それとも
相手チームを偵察か?        





11:45
 参加者揃う
開会のあいさつをするすりきれ




11:50
 ご隠居は豆腐(島豆腐ふう)を炒める。すりきれチームは下
準備。                         




11:55
 ご隠居が豆腐を炒め続けているところに、すりきれお麩を持
ってかまどの前に立つ!                 




 ご隠居とすりきれから「火が弱い」と注文が入り、素早く薪
をくべる土岐さん。                 




12:00
 ご隠居の鍋には、ゴーヤ、豚肉、塩、ごま油。すりきれの鍋
には、ゴーヤ、スパム。火に腕をあぶられて熱いらしい。  




 山本さん、ご隠居の隣に鍋をかけて玉
子を流す。             




 チンゲン菜、白キクラゲ、塩、酒、ナ
ンプラーが入る。          




  ご隠居の鍋には玉子と醤油が入ってそ
ろそろ完成!?       






12:05
盛りつけるご隠居。






12:07


すりきれラストスパート! 味を整える。





12:10
すりきれチームのフーチャンプルが盛りつけられる。              
紙皿節約で、同じ皿に両者のチャンプルを合わせ盛ることになった。
左にある黄色と赤い料理は、山本さんのオムレツ。        




12:12


  すりきれチームの二品目。焼いている
人はさや子さん。       





12:15
バーベキューの用意が整う。他に、ピーマン、ナス、イカ、焼きそば。




12:17
 ご隠居チーム助っ人の持ち込み品。マ
グロの味噌漬け。          






  ご隠居はいつの間にか再びゴーヤチャ
ンプルの具を用意していた。「ハードバ
ージョンを作るの」と、ご隠居。   







12:35
料理完成


左上:すりきれのゴーヤサラダ         
右上:さや子さんのゴーヤの肉詰め       
右下:お皿の左半分はご隠居のゴーヤチャンプル 
右半分はすりきれのフーチャンプル  
左下:山本さんのオムレツ生ハム添え      
 写真はないのですが、土岐さんの料理もありました。
どんな感じかというと、数個のピーマンを縦二つ切
 りにして炒めて皿の中央に盛り、それを囲うように、
縦四つ切りにして炒めたナスをいくつも真四角に重
ねた塩味の料理でした。            



    
12:50
試食

 【評】                           
・豆腐が良い。ご隠居に一票。              
 ・素材的にはご隠居なので、ゴーヤ料理としてはご隠居に一票。
 すりきれさんのチャンプルはスパムの味が生きている。  
お麩も凝っているから味はすりきれさんに一票。     
・ご隠居に一票。ゴーヤの肉詰めがおいしい。       
・豆腐が良いからご隠居に一票。             
・すりきれさんのは色が綺麗だけれど、中華っぽいからフーチ
 ャンプルでなくてもよい。ご隠居のは隠し味が効いている。
・味はすりきれさん。だけど、チンゲン菜とナンプラーは沖縄
料理ではない。料理としてはご隠居。          
・お麩に一票。いつものゴーヤチャンプルと全然違う。薪で作
ると聞いた段階で、あなたの料理は無理。でもこのゴーヤは
 生っぽいけれどおいしい。               

 決着は微妙にご隠居勝利。               
               「ゴーヤチャンプルに豆腐ははずせない」ご隠居はご満悦であ
りました。                       


13:30
ご隠居、踊り出す。勝者笑い、敗者泣く。詳細は編集後記で。




同じ頃、かまどではバーベキュー。



16:30
解散


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終戦60年を前に・・・“すいとんを食べながら語りましょう”会
           8月15日(金)昼12〜 カンパリクラブ(神奈川県藤沢市)



 江ノ電沿線新聞社主催の“すいとんを食べながら語りましょう”
会に行って来ました。      
悪天候の中、電車は止まったり、大幅な遅れでどうなることか
と思いつつ、行ってみると会場のカンパリクラブは満員。定員
三十名。照明も当時をしのばせて。



料理は時計回りで、一番上は当時の出汁なしのしょうゆ味すい
とん/味噌味の野菜の具が入り出汁もおいしい現代風すいとん/
サツマイモの蔓の煮物でお醤油だけを使ったもの/サツマイモ
の蔓と野菜の入った現代風の煮物/サツマイモ入りの芋ご飯



まずおいしいことに気づく。もっと芋ご飯は芋だらけで、すい
とんは水っぽかったと、口々に当時と比較する。もちもちと歯
ごたえのあるおいしいすいとんは、当時は全くなかった。ご隠
居もすいとんをいただいている。



大根飯をお釜で焚く。お焦げがおいしかった。当時は、もっと
菜っぱが多くて、当然だが、ご飯はまったく少なかった。



すいとんを食べながら語るのは各自の戦争体験。空襲とひもじ
さについて次々と語られた。また、教職の方もいて授業でどう
生徒に語り継いだらいいのか、模索中で参加したという人もい
た。戦争を知っている世代は少なくなっている。戦後生まれの
まったく飢えた記憶がないのに、戦争体験を理解していくのは
難しいと語る人。物事を伝えていくとき、ヒーローがいればそ
れは伝えやすいし、わかりやすい。しかし、戦争のことはヒー
ローを作ってはいけない。ひもじいというのでは伝わらない。
マイナスだけで伝えるのは難しい、という意見も出た。

ゆりはじめさんが到着する。西伊豆よりいらした。午前6時台
に家を出て午後1時過ぎていた。著書「搖年記」の紹介をして
いただく。当時の小学生の生活の記録としても、当時の資料と
しても大切な本だと紹介された。また、ゆりはじめさん自身の
著作「どこか南の小島に」の話しをされた。

語り継ぐことの難しさを感じつつも、その必要だけは今日の世
界の情勢を見れば明らかだった。(すりきれ)

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疎開問題研究会創立10周年記念特別展
少年少女は見た「横浜の疎開と空襲」

8/9(土)〜8/17(日)・横浜イセザキ町有隣堂ギャラリー



 初日の8月9日、台風十号の大雨の中、ご隠居のミニトーク
があるというので取材に行って来ました。この会と今回の展示
やイベントの趣旨は下記の文章に述べられています。    




文中にある鶴丸明彦さんの「戦災絵画」です。




当時の新聞をいただく。


 昭和20年5月30日の朝日新聞には「一、五月二十九日九
時三十分より一時間半に亙り敵B29約五百機はP51約百機
を随伴主力を以て横濱市一部を以て川崎市及帝都の一部に来襲
主として焼夷弾により市街地を無差別爆撃せり右(上のこと・
 横書きにしているため)により横濱市に相當の被害あり・・・・略」
とある。横浜大空襲であった。              



 会場の壁には当時を物語る写真が展示してあった。    




これは、配られたという毒ガス用のマスク。      




爆撃で炎上した台所にあったサイダー瓶。       




午後1時、ミニトークは始まった。台風のただ中であった。




 このミニトークは9日(土)10日(日)16日(土)17
日(日)の4日間に、各1時からと3時からの予定で行われる
もの。今日は初日で、ご隠居の出演する1時の部を聴く。開会
の辞が代表であるゆりはじめさんから。         




 有隣堂の会長篠崎さんは、最前列の端っこでずっと始まるの
をまっていらした。集団疎開の経験はないけれど、学徒動員を
し、終戦は金沢八景で迎えたそうです。       




  ご隠居の話が始まった。                

 僕の住んでいる藤沢では今朝、市の広報のスピーカーから、
今日は長崎の原爆の日なので黙祷という案内があった。原爆は
事実であると同時に象徴でもある。死者の数から言えば、東京
大空襲での総数の方が広島の原爆より多かったのだが、そんな
事実だけを比べたら象徴の意味が失せちゃう。同じように、学
童疎開も、事実ももちろん重要だけれど、それは事実を越えて
戦時中の学童の全戦争体験のシンボルとして受け止める必要が
ある。疎開を追求して疎開を越える、ということが大切だと思
う。空襲についても同じで、空襲体験という事実を究めて空襲
体験を越える必要がある。僕も追求して越えたいがなかなか越
えられない。                      
 僕は空襲のことは今までに二回しか書いていない。それも、
二シーンだけ。空襲は事実が強烈すぎて素材に小説が負けてし
まって、たいへん小説化が難しい。その二シーンのうちの一つ
は1963年七曜社から出版され、その後毎日新聞社で再版し
ていただいた僕の処女作「ごったがえしの時点」と、もう一つ
は1972年に雑誌「新潮」に発表し、その後単行本や文庫本
に再録した「松林のむこう」。              
 今日はそのうち「ごったがえしの時点」から、1945年5
月29日の横浜大空襲の部分を朗読させてもらうが、小説の中
でここだけはどうしてもノンフィクション的にしか書けなかっ
た。                          


 朗読のあと、虚弱で学童疎開に参加せず自宅からがらんどう
の学校へ通学した話。空襲にあったときの話。そして、原爆や
空襲や疎開は象徴として語り継がれていくべきだけれど、もっ
とも重苦しく辛かったのは、日常の中にのしかかった軍国主義
であり、全体主義だったと話した。それは、みな同じにしなけ
ればならないということよりもさらに、みな同じに感じなけれ
ばならないという枷をはめられたものだった。そういう戦争中
の日常が非常に辛く苦しかった。今、北朝鮮を見て、おかしい
などと言えるものではない。あの時の僕たちはまさにあのよう
なものだったのだから。                 


 主催者に用意していただいた地図からは、かなりずれていた
が、ここ辺りが松が丘と壁を指さすご隠居。その辺りのことは、
以前「搖年記を歩く」でご紹介しています。        



 主催者から「搖年記」の案内。「ごったがえしの時点」は古
書店でしか入手不可。図書館で探してくださいと。     



 続いて、間門の柴田順吉氏が、空襲で陸地が歩けず、海を回っ
て逃げた話しをされた。                  




 栗田谷の川田敦子さんは、当日もこどもに話す通りに、絵を
使ったりして話してくださった。             






 そして予定よりもだいぶ時間を掛けて、第1部は終了した。
すぐ、引き続き、紙芝居が始まった。           



 帰り道、ご隠居は傘がおちょこになったそうです。私は、か
 なり濡れましたが、空襲のあとに降った雨のことを考えながら、
長々と歩いて帰りました。       
 翌日の朝刊に、紹介されていましたので、「横丁の裏話」の
方でご紹介します。(すりきれ)    

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花火見物 文成丸にて     7月25日



   毎夏、ご隠居は文成丸の上で江ノ島の花火を見物しています。
文成丸は「ご隠居学の遊びの現場」に登場した釣船で、花火の
夜はここに船長ご夫妻とお仲間が集まって、お酒を飲みながら
ワイワイがやがやと盛り上がるのです。          
 ご隠居から花火の連絡があったのは7月初旬。すりきれとじ
ゅげむは船上の花火見物を心待ちにしつつ、当日はJR藤沢駅
でご隠居と待ち合わせ同行取材をしてきました。      
 今年の花火大会は長引く梅雨のさなか。午前中は晴れていた
ものの、午後から雲が厚くなり、19:30花火の打ち上げ直
前には急激に湿度が高まってついに雨がぽつりぽつり。終わり
間近には大輪の花も雨に煙ってしまいました。それでも最後ま
 で歓声は止むことなく、予定どおり20:30に終了しました。
 その様子を写真で紹介します。(じゅ)         




孫の手を引いて船着き場へ向かうご隠居。




18:20 文成丸の船長ご夫妻に迎えられる。








18:30 乾杯!



この日の朝3時過ぎに江ノ島沖で上がった鰆

こちらは鯛 目の下1尺

船長特製しめ鯖




お酒は〆張鶴。ビールはアサヒスーパードライ。




文成丸船長




  参加者の到着ごとに乾杯が繰り返され、これは6回目の乾杯。
花火大会が終わるまでには総勢23人に。         




19:28 花火の打ち上げを待つ。ぽつぽつ雨が・・・・








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沖縄ゴーゴー     6月22日



 梅雨になり、なんとなく心も体も重たげな日々に喝をいれる
べくご隠居とすりきれは、かねてからあこがれの沖縄に行って
まいりました。といってもそこは五反田の「結まーる」という
沖縄料理の店。ライブがあるというのです。頭の中は「ナビィ
の恋」のラストシーンが渦巻き、もう期待にぱっつんぱっつん
になっておりました。6月13日のことです。       




「結まーる」入口



 今回、私たちのミニ沖縄ツアーに参加していただいたのは、
とらむさん。我々に負けない沖縄好き。いつか、本物沖縄ツア
ーの実現の折りには団長になっていただかねばならぬおひとで
す。そして、ちょっとガジマルの木の枝に座っているのが似合
いそうな妖精のような方でもあるのでした。舞台の一番前の席
に座りライブが始まる前に腹ごしらえをすることにして、ゴー
ヤチャンプル、フーチャンプル、ラフテーをたのみ、オリオン
ビールで取りあえず乾杯をする。             




おいしい沖縄



 沖縄出身の「結まーる」のママは自らバンドをひきいてライ
ブをなさるそうです。写真の許可をいただいたりして少しお話
を伺いました。週一回金曜日にはライブをしていて、八時から
一回休憩しながらも、十時半までのライブの最中は、お客が溢
れて入りきれなくなることもしばしばとのこと。沖縄の生地で
作った半袖のシャツ、カリユシが清々しい。今日のライブのバ
ンドは、海ヤカラー。                  



 オリオンビールはすぐになくなり、いよいよ泡盛選びに。久
 米島産の久米仙をメニューに見つけて、注文。手にとって眺め、
 飲んで納得。もう、料理は進み泡盛も進むのです、ずんずんと。


久米仙は甘露でした



ご隠居 とらむさんは潜るのですか。         
とらむ 素潜りだけ。シュノーケルだけです。     
ご隠居 潜る必要なんかないんだよね、とくに八重山は。
僕のお気に入りのスポットはビーチの外まで歩いて行かれ
てね、そこではぷかぷか浮いていればいいの。珊瑚がいっ
ぱいあって、でかい魚がやってくるんだ。それでね、ヤガ
ラという魚がいるのね。細長い魚なんだけれど、逆立ちし
てるんだ。えさを食べているんだろうね、でもそれが足み
たいに見える。たくさんいて足の林みたいなんだ。それか
ら、カツオの群が来る。               
とらむ わぁ、カツオですか。            
ご隠居 そうなの、カツオの群が通ったり、鰯だと思うん
だけれど、こんなこともあった。大群に取り囲まれちゃっ
てね。もう頭の先から足まで、全身。きらきらしていて、
きれいだった。まさに至福という感じだったよ。    
すりきれ 沖縄というと海なんですね。        
ご隠居 それが違うんだな。最初は地上を見た。基地、戦
跡、街。次に行ったときに海にはまったんだ。でね、その
あと、これは沖縄に行ってではなくこっちにいて、沖縄の
民謡に出会ってしまった。すっかり魅了されたんだ。その
とき、僕は長編小説を書いていて、これを書き上げたら沖
縄へ行くぞと思った。行って民謡に浸りたいと思っていた
んだ。でも、書き上げたら疲れ切っていて、行かれなくな
っていた。行かれなくなると、ほら、こう行きたいなあと
いう気持が募って、なおさら憧れるんだ。       
すりきれ 沖縄というのは、自然もすごいけれど、文化も
すごいのよね。                   
ご隠居 そうそう、でも、それぞれが桁違いなの。でもま
だ、民謡を聴きに行っていない。CDはたくさんあるし、
歌えるようにもなったんだけどね。          
とらむ でも、沖縄の海はたくさん潜っていらっしゃるん
ですね。                      
ご隠居 回数はそんなに行っていないの。でもね、僕はマ
ンタの背中に乗ったの。ほんとだよ。石垣島のなんという
ビーチだったかなあ。そこには大きな生け簀があってね、
その底の方にマンタの子どもがいたんだ。三十年ぐらい前
だな、あの当時はその生け簀に入れてくれたの。マンタの
口はジェット機の吸気口みたいな格好で、歯がない。口に
掴まって、またがると嫌がって暴れて潜るんだ。でも、こ
っちは体が浮いちゃうから、必死で掴まるんだけれど、い
つしか手が離れてぽかっと浮いちゃうんだ。何回も何回も
繰り返して、ああこれも至福の時だったなあ。で、マンタ
の膚は鮫肌でね、腿の内側なんか、すりむけたけどね。 
とらむ 触ったことのない動物に触るのはすてきですね。
すりきれ 私はいるかに触ったよ、沖縄で。思っていた以
上に知性を感じる目でした。目が合うと、すぐにアイコン
タクトというか、互いに相手を認める感じがするの。  
ご隠居 ひょっとして軽蔑の眼とかするのかな、背中にな
んか乗ると。                    
すりきれ かもね。                 
とらむ 撫でたの? 膚はどんなでしたか。      
すりきれ ツルツルで金属のように冷たかった。    



 その後、泡盛も充分にまわって、7月に計画されている「ゴ
ーヤチャンプルバトル」の話に移り、さらに「炭焼き」「製本」
と企画の出し放題となるのでした。「話題あれこれ」のコーナー
はしばらく忙しくなりそうです。このコーナーの特色は、自分
たちが遊ぶということにほぼ固まってきていて、充分に遊んだ
報告をする、あるいはいろいろな方たちと一緒に遊ぶというこ
とになりそうです。                   



 やがて沖縄タイムの三十分遅れでライブは始まった。てえげ
えの精神に触れる。                   

二名だった



ユンタではじまり、二見情話、うちなんと続く。

聞き惚れるとらむさんとご隠居



ひとり追加されて充実のバンドとなる。怨み節。アガリジョ
ウ。19の春。ハイサオジサン。             

太鼓もはいり、また、さらによい。



 その後ご隠居とすりきれはカチャーシーしたのだけれど、そ
れについての記録はありません、へへへ。休憩時間となり、海
ヤカラーの方たちとお話しできました。まず、この楽器、サン
ジャ。材料は黒檀で、一生ものだそうです。        



みんなで鳴らし方を教わる。



 さらに、カチャーシーの踊り方について伺う。形はあるのだ
そうで、踊りの中心は手首だそうです。手首のしなやかさと、
掌の親指の付け根の盛り上がった辺りを突き出すように返した
りするのです。しかしすぐに、チャンプルでいいの、好きにや
ればいいのと教えられましたが、その独特のウチナンのイント
ネーションに、おおらかさを感じてジーンとなったりもしたの
でした。男の人は掌をグーにするのが一般的だとのこと、いゃ
あ知らなかった「ナビィの恋」何回も観たのに。      



二回目のライブはすぐに始まり、夜も更けてきたので、私た
  ちはライブの途中でしたが失礼させていただきました。外に出
ると、梅雨なのに空には丸く明るい月が。五反田の駅へ向かい
ながら、「江戸は薩摩を差別し、薩摩は琉球を差別し、琉球は
八重山を差別した」とご隠居はうんちくをたれました。雲がス
ピードを上げて流れていき、月を隠したり、またすぐに月が顔
を出したりしました。その月は、いつにも増して輝いたりして
いて、まるでカルメンの音楽が似合う夜だったのでした。  



 五反田の駅で、とらむさんと反対方向の電車に乗ったのです
が、ご隠居とすりきりの乗った山手線のドアが閉まる寸前、と
らむさんは信じられないほどの優雅な手つきで、カチャーシー
を踊ったのです。一瞬のことでした。酔っぱらい客で溢れる五
 反田のホームに、ウチナンの妖精がいたように見えたのでした。
                       (すりきれ)
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そして始まり そして終わった      3月15日





事前にお知らせいたしましたご隠居ひきいる「そして企画」
のイベントが、無事に終わりました。3月7、8、9の3日間
 でしたが、われわれご隠居横丁の住人として気になるところは、
ご隠居のお話の時のお客様の入りと、恥ずかしながらオープニ
ングパーティの華やぎ。相済まぬことですが、三木卓さんの音
読についての膝を打つようなお話も、太田治子さんのお優しい
お顔にも心が鎮められる思いでしたが、なんといっても、われ
らご隠居の立ち見の出る盛況と、しどろもどろに始まる「ご隠
居学の薦め」に手に汗握る興奮を憶えたのでした。     
   さらに、お話のあとには質問の時間もとってあると訊き、な
んとか気の利いた質問のひとつでもして場を和ませようと、尻
っぱしょりをしたのでした。ところが、会場からはご隠居学の
薦めで話したことにかんしてのさらなるご隠居学的知識や感想
を述べられる方が続き、ご隠居もうーんうーんと唸りながらも
満面の笑み。案ずるよりも産むがやすしと身をもって感じ入っ
た次第です。                      
 この「ご隠居学の薦め」については、当ホームページのメイ
ンテーマでありまして、その考えの大本の所も「月だより」に
 おいてご隠居が語っておりますので、ここでの紹介は省きます。
 さて、ご隠居は「ご隠居学の薦め」と、もうひとつ「『そして』
の由来」を語りました。その部分をここに紹介させていただき
ます。(すりきれ)                   







ご隠居のスピーチ                    

 雑誌「そして」も、ここに目出度く──と言うと語弊がある
 し、惜しまれつつ──と、当事者が言うのは慎みがないけれど、
とにかく終わりを迎えまして、在世中は──というか、とにか
くさまざまなお力添えを有り難うございました。      
 この雑誌について、まずみなさまにいちばんご質問を受けた
のは、「そして」という誌名の由来は? ということでした。
  ところで、この雑誌を創刊してあちこちにお送りした折りに、
平岡篤頼先生から早速お便りがありまして、お褒めの言葉を頂
きました。「貴方達は偉い。最新の(そして論理)について研
 究し、さっそく雑誌のネーミングに取り入れるとは、さすがだ」
というわけなんです。私としましては、なんとお答えしたもの
か、恐縮いたしました。                 

 この(そして論理)については、平岡先生のエッセイから、
 その要旨を紹介させて頂きますと、まずたとえば「たかが野球、
されど野球」なんていう題の本がありましたが、それに倣って
「たかが文学、されど文学」と言ったとすると、これは(しか
し論理)だ、というわけなんですね。「されど」は「しかし」
 の意味ですが、こうして二つの内容が「しかし」で結ばれると、
二者択一の論理になる。発言者の本音は後半、つまり「されど
文学」のほうに力点が置かれている。           
 しかし、このように、どっちかに決めないと気が済まない、
というその単純さが、文学を衰弱させている。「文学は本音の
ようだが、しかし遊びだ」「文学は遊びのようだが、しかし本
音だ」というのは両方とも(しかし論理)だが、でも、そのほ
かに「文学は本音であり、そして遊びだ」という論理があり、
それが(そして論理)だ、というわけです。        
 二つの論理の違いはたいしたことではないようだが、実は大
きな隔たりがある。(しかし論理)は、二者択一であり、現実
の生活の論理で、政治の論理でもある。(そして論理)は、二
重思考で、いわば文学や思想の論理だが、これを適用すると、
実にいろいろのことがわかってくる。           
「小説は人間とか社会とかを描いていて(そして)それを再現
していない」                      
「戦後派文学はだめであって(そして)素晴らしい」    
「サブカルチャーはばかばかしくて(そして)重要である」 
「小説の命脈は尽きていて(そして)これからが楽しみだ」 
「こんな言い方をすること自体、ばかげていて(そして)現代
思想の最も注目すべき成果に直接つながる」といった具合に。
                        バルトも指摘しているように、「文学言語それ自体、意味の
提示であり(そして)意味のはぐらかしとして働く」ものだか
らだ。                         
 
 ここまで読んで、私も初めて、ああ、そうか、これは例の構
造主義に繋がる文学思想らしいな、とやっと見当がついてきた
んです。自分で名前を付けておいて、後になってやっと見当が
ついたなんて、寝惚けたことを言うな、とお叱りを受けそうで
すが、実は、白状しますと、「そして」という誌名を付けた時
には、我々は誰ひとり(そして論理)なんてものは知らなかっ
たのでした。                      

 ここには、雑誌の名前なんかお決めになったことのある方は
あんまりいらっしゃらないだろうと思いますが、いざ付けると
なると、思いつくようなめぼしい名前はもうとっくにどこかし
らで使われてしまっているんですよね。「文学」は岩波で、「
文芸」は河出で──といった具合に。「心」なんてちょっとい
いんじゃないか、と言うと、昔そういう名前の有名な雑誌があ
ったよ、ということになる。それじゃあアイウエオ順に考えて
行ってみよう、というわけで、ア、茜──ひと昔前のバーの女
給じゃあるまいし。イ、色と欲──ってのもナンだし。ウ、宇
宙──ってのは墜落しそうだし。             

 というわけで、結局のところ、さっぱり思いつけなくて、こ
れは意味を考えるからいけないんだ、却って意味のない言葉を
考えたほうがいいんじゃないか、と誰かが言い出して、それじ
ゃ「だから」なんて、意味がなくて、しかも意味ありげでいい
んじゃないか、と言う人も居たんですが、でも確かスポーツド
リンクにそんなのがあるよ、ということでダメになりました。
じゃ「だから」がダメなら「それから」ならどうだ、という案
が出て、ああ、それがいい、とみんな頷いたんですが、決定寸
前に、でも夏目漱石にそんな名の作品があるけど、とクレーム
が出ました。もうその頃にはみんな疲れ果てていまして、思考
の幅も狭くなって、「それから」がダメなら、もう「そして」
でいいじゃないか、そうだ、そうだ、ということで、みんな投
げやりに「そして」に賛成してしまった、というわけです。 

 そんな経過で決まった誌名を、平岡先生に買い被られてしま
いまして、私としましては、なんだかまことにバツが悪くて、
困りました。                      
 でも、考えてみると、これは我らの雑誌にハクを付けるのに
は絶好のネタであります。そこで、遅まきながら、雑誌「そし
て」の誌名の意味づけに、これを頂こうということになりまし
た。                          
  ですから、それ以来、誰かに、「そして」ってどういう意味?
  なんて訊かれますと──おや、(そして論理)を知らないの?
──などと、蔑むような口調で答えたりしているわけです。 
 一般に、雑誌のネーミングには、まず内容が決まり、それに
 沿って名前が付くのが普通なのですが、「そして」の場合には、
それが逆転しておりまして、先に名前が付いて、後から意味が
 付いた、という、なかなかユニークなケースなのでありました。
                   「そして」の名前の由来について、お粗末な一席でございま
す。お付き合い頂きまして有り難うございました。     







 さて、オープニングパーティも華やかで楽しく、ギャラリー
の壁をぐるりと囲んだ文芸誌「そして」の表紙の原画や、「そ
して企画」の単行本の表紙を飾った原画が並び、思い出がたく
さん詰まったギャラリーの角で、ご隠居も考え深く杯を傾けて
いたのでした。(す)                  








ご隠居学の遊びの現場     2月20日



ここに ご隠居の骨格を見る!!   
 紹介するのは、その発足からご隠居が関わった釣り船と船上
パーティーとをセットにした定例会「文成丸釣飲会」と、その
機関誌「月刊 釣飲」であります。ご隠居は会長として、また
「月刊 釣飲」の編集長として、なんと足かけ21年、たぶん
煙たがられたり、うるさがられたりしならも、会長と編集長と
いう右手にピストル、左手にバラの花状態で、楽しく遊んでい
たのでした。たぶん、遊ばせてもらっていたという方が正しい
と思うのですが。                    
 しかし、遊びに関しては、労を惜しまず、次から次へとアイ
ディアが湧き、それを実現させるためのまめさは、誰にも負け
ないご隠居の神髄が、ここからもうかがい知れようというもの
です。そして、発足から21年目の今日も少しも変わらず、い
や、かえって潮風で脂の抜けた分だけ風流も増して、ご隠居学
の道をヨーソロヨーソロと進んでおられるのでした。    



「文成丸釣飲会」の21年を綴った「月刊 釣飲」ご隠居編集長の腕と文字
 「文成丸釣飲会」の発足は1982年10月31日(日)の
ことです。それについては「月刊 釣飲」のNO.0に詳しく
載っていますので、少し紹介します。           
 作家のデビュー作にその作家のすべてがあると言われるけれ
ど、このNO.0にはこれから20年も続くことになる「文成
丸釣飲会」の揺るぎない骨子が声高々と謳われて いるのです。
謳っているのはまだ若い、といっても世間的にはたいして若く
はないご隠居です。                   
 そして、その声といったら、この場合は字ですが、あまりに
も素敵です。脱力と緊張が変な具合に混ざり合って独特の香り
を醸し出しています。見たものを一瞬のうちに魅了します、小
学生のようなあどけなさで。               




1982年10月20日 NO.0



 【『文成丸釣飲会』ついに発足!】と大見出しであります。
「10月31日に初船出、準備・総・旗上げ会を兼ね」と、小
見出し。本文は「この夏、小菅文雄氏の愛船「文成丸」の船上
での花火見物パーティーの席上で持ちだされた提案に端を発し
 た、船釣りと船上パーティーとを一セットにした定例の企画が、
小菅氏の好意と関係者のずうずうしさとのたまものとして、こ
こに実現のはこびとなった」と書かれています。読めますでし
ょうか・・・・。                      
 さらに「本来、このたぐいの組織づくりには、準備会と総会
と旗上げ会と定例会とを別々に催すのが常道であるが、しちめ
んどくさいのはごめんだ、という意見が大勢を占めた結果、こ
 の四つをいっぺんにやってしまおう、という結論におちついた。
したがって、第一回の催しは、釣るのと飲むのと駄弁るのと会
則その他を討議するのとそれを議決するのと会の成立を祝って
乾杯するのとを、いっぺんにやらねばならないので、かなりの
多忙が予想される」と、高揚した気分が伝わる文面と字面であ
ります。                        
 そして「アイデアあれこれ」の小見出しがあり、考えつく限
りの行楽や団結促進のグッズが羅列してあります。学級新聞の
ようでもあります。                   
 「たとえば、夏休みシーズンには文成丸による一泊以上の遠
 出の船旅、とか、毎月の会報発行、ときには人気ゲストの招待、
月刊釣飲チャンピオンへのトロフィー、シンボルマーク制定、
会員証の発行、お花見、花火見物、お月見、みかん狩りの各パ
ーティーその他」                    
  毎月の会報発行とありますが、これはアイデアと言うよりも、
NO.0として第一回定例会より11日も早く発行されていた
のでした。ご隠居は、思いついたら貫徹する方ですが、すぐ取
りかかる方でもあるのでした。このアイデアとして紹介された
ものは、のちにすべて実行されることとなりました。    




  初代シンボルマークはこれです。島谷晃氏の作品です。「月
刊 釣飲」のNO.2にはすでに使われているので、島谷氏が
仕事が速いと驚くしかない。氏は後に二代目会計となる。  


 二代目シンボルマークです。これも島谷氏によるもの。  
 初代と比べると飲のイメージが肥大しています。     



 なんと、バッジも作っています。それも、82年12月6日
発行の「月刊 釣飲」では「カラフルでファショナブル」と自
賛しています。シンボルマークと同じデザインです。発足二月
後の早業です。しかし、翌月の「月刊 釣飲」では字が小さく
 て見にくいために作り直しをメーカーに無料で要請したとあり、
かなりアコギな会だと編集長は自ら書いています。一個500
円とのこと。                      



 さらに、一年後の83年10月15日発行のNO.12での
会計報告によると、旗の制作費を支払っているので、「文成丸
釣飲会」の団旗は(大漁旗とは言えないでしょうなあ)この辺
りでできたのでしょうか。                



 そして、さらに驚くべきことに、翌年の1月にはメンバーで
ある亀井昭一氏によって、陶盾が会員章として作られているこ
 と。これはポセイドンの横顔が銀色に彩色された美しいもので、
「月刊 釣飲」の紙面でも販売に力がこもっているのですが、
こんなことをご隠居以外、誰が考えつくでしょうか。    



 こうして、0号で冗談のように語られたアイディアはすべか
らく実行されていくのです。それも、早いうちから。みかん狩
り、花火見物、旅行会、花見会。行事をこなしながら、グッズ
もそろえ、その上、釣りはするは酒は飲むはのフル回転の遊び
ようです。しかし、それだけではないのです。機関誌「月刊 
釣飲」の記事も、遊びとともに充実していくのです。    



 まず、NO.3から、文成丸釣飲会の代表であり、文成丸の
船長小菅文雄氏のエッセイが連載されはじめました。最初は「
文成丸」との電撃的な出会いと、狂おしい再会の物語として始
まりました。船と抱き合うという表現に、涙を誘われるのです
が、考えてみれば抱きつけても抱き合うことは無理だと思うの
でした。その後、エッセイは「かたせ今昔」として回を重ね、
なんと今年の初めには219回に及んでいます。回数もさるこ
とながら、内容もすばらしく一冊の本になるのも間近と聞きま
した。さすが、人に書かせることについては神業のごときパワ
ーを発揮するご隠居。そのうえ、いつも一番の読者になるご隠
居のことなので、小菅船長も編集長の魔の手から逃げられなか
ったのだと思います。                  




1984年12月?日 NO.26



 紙面の充実と言えば、よほど定例会での優勝者が悔しかった
のだろう、「今後機関誌には必ず優勝者が寄稿しなければなら
ない」と決議して、リレーエッセイ「話の闇汁」が始まったの
が85年4月6日 NO.26から。紙面は創意工夫をこらす
と言うより、直球に継ぐ直球で、しょんべんカーブらしきもの
は見あたらず。字面の怪しさを救うように、内容は充実の一途
をたどる。いつからか、手書きの紙面は活字となり、パソコン
編集となった。当然、ご隠居は編集長でありながらもはや編集
を次世代に譲った。しかし、20年を過ぎても遊びのリーダー
として健在です。なぜなら、ご隠居学にも通ずる次のような気
持ちがあるからです。                  



 「この会をできるだけ変な会≠ノしたい、というのが当初
 よりの私の念願でした。このところ、人材にも恵まれ、着々と、
変な会になりつつあるので、変な会長としては欣快に堪えませ
 ん。今後とも、無駄なこと、筋の通らぬこと、大人げないこと、
ヒンシュクを買うこと、暴投、デッドボール、その他、もっと
もっと変な会にするために、会員ご一同の、なおいっそうの奮
起をうながしたいと存じます」              
 「山猫とどんくり」の宮沢賢治も真っ青です。これは、発足
してから半年後の83年5月1日の「月刊 釣飲」に寄せられ
 た言葉です。この言葉は、その後もご隠居の背骨を貫いていて、
「文成丸釣飲会」を離れた場所にいても変わらないのです。そ
して、今日のご隠居学の大黒柱となっているのでした。(す)




2002年12月 NO.231

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