隠居のうんちく



 
                         究極の建前と本音(江戸時代編)

                               

            その一
 「有職故実」というものがありまして、よく判らないけれどなんだか重大なものらしい。なにしろ、例の忠臣蔵では、それを教えてくれなかったといって、浅野内匠守が殿中で吉良上野介に斬りつけて、切腹、お家断絶、藩お取り潰しになったほど、重大なものらしいのです。
 要するにそれは「先例」のことらしいのですが、でも、たかが先例がどうしてそんなに重大なんだ? 
 と、隠居は永年、「?」マークの虜になっていたのですが、最近やっと多少納得がいくところがありました。
要するに、今の日本国憲法にあたるようなものが、江戸時代には「先例」だったらしいのですね。
 いや、建前としては日本国憲法にあたるものは、当時も他にちゃんとありました。それは「律令制」です。
なんと、律令制は明治維新まではちゃんと生きていたのです。江戸時代にも右大臣、左大臣は存在しましたし、徳川将軍は代々征夷大将軍でした。
 勿論、既に平安時代には早くも、ご存知のように事実上「律令制」は崩壊して「摂関制」「荘園制」に取って代わられていました。でも、建前としては、その後も実に一千年以上、日本はずっと律令制だったのです。例えば「武家諸法度」なんかも、あれは憲法ではなくて、武家という巨大会社の「社内規約」みたいなものに過ぎなかったのでしょうね。あの群雄割拠、下克上の戦国時代でさえも、建前としては日本は律令国家だったのですよ。
 日本のトップたちは、揃いも揃って、建前を変えるのを極端に嫌ったらしい。建前を変えるのではなく、建前を無視してしまう道を常に選び、それとは別に「本音」を決めて、実務はそれに随ったのです。
 本音とはつまり「不文律」のことですね。
 成文法である「建前」はそのままにしておいて無視し、万事は不文律の「本音」に随って取り仕切る。
 不文律とは要するに「先例」ですよ。何事も先例に随って捌き、先例のない新しいケースだけ、トップが相談して新しく取り決める。すると今後はそれが先例になる。だから、先例は止め処なく増える一方です。
 現代大学の法学部学生は、六法全書の他に判例集も暗記しなければなりません。ところが、例えば江戸時代には六法全書に当たるものが(無視されている)律令制だったのですから、当時の官僚は、いわば六法全書なしで判例集だけを暗記しなければ ならなかったようなものです。その「六法全書なしの判例集」にあたるものが「有職故実」なのですね。
 ということになれば、なるほど有職故実は確かに重大だ。あの時代には世襲の有職故実専門の役職である「高家」というものがあり、吉良上野介はその当主でしたが、現代でいえばそれは最高裁判事みたいな役柄とも言えますね。なにしろ有職故実が 憲法の代わりなのですから。
 最近ナニナニ省の次官殺しがニュースになったばかりですが、現代でも、例えば最高裁の裁判長がテロに遭ったら、やはり大騒ぎになるでしょう。つまり忠臣蔵の発端とは、要するにそういうものだったのですよ。


 序でながら……。
 情報は有料だ、というのは現代では常識で、新聞だって週刊誌だって、お金を出さなければ買えません。ところが、昔はその点が今ほどはっきりしていなかった。特に平和な時代(元禄)に育った戦争を知らない世代のお坊ちゃん(つまり浅野内匠守)には、その認識がまるっきりなかった。ご同役の「勅使ご接待係り」たちが吉良上野介から有職故実の「情報」を「買って」いるのを、内匠守は薄汚い賄賂と解釈して否定し、色も形もないただの情報のために金を出すなんて! と出費を部下に許さなかったのが、殿中松の廊下でのトラブルの遠因だった、という説があるようです。


 もう一つ……。
 実に千年以上の間、一度も建前を変えようとしなかった日本のトップたちは、なぜか急にこの百年足らずの間に、二度も建前を変えました。つまり「大日本帝国憲法」と「日本国憲法」です。それどころか最近また憲法改正と称して建前を変えようとしているようです。いったいどうしちゃったんだろう。同じ国のこととは思えませんね。尤も、どっちの方が正常な在り方なのかな? どっちも正常ではないのかもね。


             その二
「建前」については、江戸時代にはもう一つ、特筆すべきケースがあります。
 それは「この世にはお米以外には収入源は無い」という建前です。
 たしかに、奈良時代とかそれ以前の頃には、そんな時代もあったかも知れません。しかし江戸時代になっても、給料や税金はすべてそういった建前で取り決められていたのですから、実務はさぞかしたいへんだったでしょうね。
 将軍から各大名に与えられる禄高はお米一石を単位として(加賀百万石とか伊達五十万石といった具合に)数えられていたのはご存知の通りです。
 また、国民がお上に納める「年貢」つまり税金も、すべてお米の実る田んぼに掛けられる建前になっていたのです。年貢はそれぞれの田んぼの収穫の何割、というふうに決められました。三公七民とか、五公五民とか、ひどい所では八公二民とかいった具合に。
 江戸時代は、武士と僧侶(それと朝廷関係、つまり貴族皇族)以外の国民は全部「百姓」と呼ばれました。そして、田んぼを持たない百姓は「水飲み」と呼ばれたのです。
 だから、例えば流通で大儲けした紀伊国屋文左衛門のような人でも、金融で成功した鴻池のような大分限でも、田んぼを持っていないから「水飲み百姓」なのですよ。
 当時の税金――つまり年貢は、個人ではなく、村単位で課せられました。
 例えば能登半島は、田んぼが極端に少ない。でもそこは日本海航路の北前船の絶好の拠点で、繁栄している港がいくつもある。お上としてはそこから税金をたんまり取りたい。でも、建前としては、田んぼのお米以外の収入はないということになっているのだから、回船業やら積荷の売買やら、旅館への宿泊やらどんちゃんさわぎやら、造船、修理やらの収入に課税するわけにはいきません。そこで、そんな仕事で儲けた分を、その村にある田んぼからの収入として計算し、そこから税金を算出しようとする。そうすると。税金の額と田んぼの広さが当然釣り合わなくなる。でも仕方が無い。建前を通すために税額を田んぼの広さで割り算する。すると八公二民になったり、場合によっては九公一民になったりする。実際にそんな割合で田んぼから年貢を取ったら、田んぼの持ち主は餓死します。でも、それは建前であって、実際はそれは回船業やら旅館業やら造船業やらで儲けた分から支払われるのですから、実際は誰も餓死したりしないわけです。農民への税金は、江戸時代よりも富国強兵の明治時代になってからのほうが過酷で、遊郭への娘の身売りなんかは、昭和の大恐慌の折のほうが江戸時代より多かったらしいです。


             その三
 建前ついでにもう一つ。
 鎖国が江戸時代の最大の特徴ですが、ところが実際にはその鎖国は穴だらけでした。
 まず、ご存知のようにオランダ人と中国人の船は長崎来航が許されていました。
 また、当時琉球王国は、東アジア、東南アジア一帯の流通センターでしたが、そこは薩摩藩の領地ということになっていたので(実際には薩摩藩からと清国からとの二重支配)、琉球王国経由の物産はすべて薩摩藩の産物と看做されました。
 同じように、当時の北海道は松前藩の領地扱いされていたので、シベリア、サハリン経由で北海道へ入ってくる物産は松前藩のものとして処理されました。このルートは酷寒の季節以外には結構流通が盛んだったようです。
 ですから、確かに日本人は日本から一歩も出ることは出来なかったが、しかし外国の文物は、いろいろな穴から絶えずわが国へ流入していたのですね。だから、明治維新の際にも、少なくとも支配層や知識層には外国についての知識はそれなりに蓄えられていて、さほどの戸惑いはなかったようです。だからこそ、明治維新もあんなにスムースに成功したのでしょうね。


 因みに、「鎖国」という言葉は日本生まれではないのだそうです。その言葉が初めて使われたのはドイツのケンベルという人の著書のなかで、随ってそれはドイツ語でした。それがやがて英語に翻訳され、それからオランダ語にされ、ついに日本に持ち込まれて日本語に翻訳されたのは、日本が「鎖国」してからもう二百年も経った十九世紀になってからでした。
 だから、日本が鎖国した時には、わが国のトップたちにさえ、それは鎖国という概念としては捉えられていなかった、とも言えますね。
 せいぜいそれは、お上による貿易独占令、程度の認識だったのかも知れません。それにカソリック系国家排除を付け加えただけだったのかもね。

                               

 
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