仏の御姿と仏像とは全然違うということをご存知ですか?
隠居はひところ、中宮寺の弥勒菩薩にハマって、写真を数十枚集めていたこともありました。歯医者の待合室で、今まで見たこともなかった角度の素敵な写真を雑誌のグラビアで見つけ、人目を盗んで破りとって来たこともありました。
そんな私でも、仏像そのものは本来仏教に発するものではなく、あれはガンダーラで仏教がギリシャ文化に出逢って初めて生まれたものだ、くらいのことは知っていました。でもそれなりに仏像は仏教の経典の記述を形象化したものだろうと思い込んでいました。
ところが、そうではなかったのです。
仏典の中の御仏の姿は、三十二の「相」があり、それを更に細かくすると八十種の「好」があり、合わせて「相好」と称します(「相好を崩す」などというあの相好ですね)。
それは、
(肩)丸い (肩円好相)
(指)水掻きがある (縵網相)
(声)大きい (梵声相)
(足の裏)平ら (足下安平立相)
法輪がある (足下二輪相)
(歯)四十本ある (四十歯相)
(舌)顔全体を覆う (大舌相)
(瞳)紺青色 (真青眼相)
(睫毛)牛の睫のよう (牛眼睫相)
(頭頂)肉が盛り上がる(肉?相)
(眉間)一丈五尺(約四・五m)の白毛が生えている(白毫相)
(手足)非常に長い (正立手摩膝相)
(両頬)膨らんでいる (師子頬相)
要するに仏とは、偏平足で足の裏にツムジがあり、イモリやカエルのような指を持ち、顔を隠せるほど舌が大きく、歯が四十本生えていて(成人の歯は三十二本)、眼は青く、牛のような睫で、ビリケン頭で、眉間から身長の三倍近い白毛が生え、タラバ蟹のように手足が長く、お多福風邪にかかったような頬をしているわけですね。
中宮寺の弥勒菩薩像との、この落差! これじゃ、むしろ妖怪じゃありませんか。
私達は千手観音や阿修羅の像を見るとややグロテスクな印象を受けますが、どうやらあっちの方が、中宮寺や広隆寺の仏像よりは、仏の御姿にむしろ近いのかも知れません。でも、どうして御仏はそんな姿をしておられるのでしょう?
私が思うには、要するに仏典が言いたいのは「仏様は人間とは違うんだよ」ということだったのではないでしょうか。つまり仏の「超越性」を表わしたかった。
一方、人間のほうは、自分に形が近いもののほうが好きになる、という習性を持っています。心理学者に言わせると、人間がヘビやムカデが嫌いなのは、手足がなかったり逆に多すぎたりして、自分の姿と違いすぎるからだ、ということです。(虫愛づる姫君みたいにクモやムカデが好きな人もいますが、してみるとそういう人は人間嫌いなのかな)
とにかく、一般の人たちは、仏典にあるような人間離れのした仏の姿では、(確かに超越的で有り難いかもしれないが)到底好きにはなれない。やっぱり有り難い存在は、好きになれる姿形でいて欲しい。人間が好きになれるのは、出来るだけ自分に近い姿形だ、というわけです。つまり自分との「連続性」を求めるのですね。
こうして、抽象的な仏典の「超越性」と、現実的な信仰生活の「連続性」との二律背反が、仏の御姿と仏像とのこの違いとなって現われている。……いかがですか、なかなか説得力のあるコジツケかたでしょう?
仏師は、こうした二律背反のハザマで苦心惨憺のあげく、結局、仏の真の姿よりも、生き身の人間の肉体を選んだのですね。そういう意味で、仏像は、仏教とギリシャ文化との融合というより、仏教へのギリシャ精神の勝利というべきかも知れませんね。
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