隠居のうんちく



 
                         豊穣幻想――密林と大海

                               

 私の少年時代……つまり戦争中の人気マンガに、「のらくろ」とともに「冒険ダン吉」がありました。南洋の島の密林で、日本人の少年が原住民を従えて酋長として大活躍するという、桃太郎に比肩する対外征服植民地化イデオロギー横溢の作品でしたが、そこで描かれる南洋の密林は、まさに果物や食用になる獲物の宝庫で、常夏の楽園でした。
 これは、このマンガの中だけの現象ではなく、一般に南洋の密林というものに対して当時の日本人が抱いていた最大公約数的なイメージでした。つまり、豊穣なる緑の楽園――密林。
 一般国民だけでなく、当時は一国の指導者たちまでが密林に対して同じようなイメージしか持っていなかったのですよ。
 ご存知のように、太平洋戦争の初期には、日本軍はあっという間に、フィリピンから今で言うベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマー、インドネシア全域まで占領しました。その時のわが国の指導者の方針は、南方派遣軍の食料は基本的には現地調達、というものでした。この地域はおおむね密林地帯だから、食料には事欠くまい、という考えでした。
 ところが、一年足らずのうちに形勢は逆転し、連合軍の反攻が始まると、たちまちミャンマーでもインドネシアのニューギニアでも、フィリピンでも、次々に日本兵士が餓死したり人肉食いが起きたりの惨劇が繰り広げられたのは、ご存知の通りです。
 あの悲劇の一端は、当時の日本軍指導者の「密林イメージ」の間違いから生まれたのです。
 密林――つまり今で言う「熱帯雨林」は、決して豊穣な地域ではないのです。
 確かに外から見ると、熱帯雨林は地上数十メートルから百メートルを超える巨大な樹樹に覆われた盛り上がるような瑞々しい緑の巨大な塊です。いかにもあらゆる生命が満ち溢れているようなとほうもなく高く広い空間に見えます。
 ところが、実は熱帯雨林で豊穣な部分は、ほんの外側の薄い殻だけなのです。
 数十メートルの高木の「樹冠」つまり梢の部分は、確かにぎっしり葉が重なり合い、そこには花も咲き実も生り、昆虫も飛び回り小鳥も囀り、それらを狙う肉食動物も出没します。
 だが熱帯雨林の地面までは、さしも強烈な熱帯の日差しも射し込みません。競いあって差し拡げられた高木の枝葉によって、光はすべて奪い合いをされて、地上までは届かないのです。
 わずかに、その地面の中には、暗い湿った腐植土を好む微生物や小動物たちが生きています。
 しかし、その地表から、遥か上の樹冠までの数十メートルの空間には、生命は存在しないのです。あるのは林立する高木の幹だけの、死の世界なのです。
 見渡す限り拡がる途方もなく広大な緑のドームの、屋根の上だけと、縁の下だけに生き物が住んでいて、そのドームの中には誰も居ない――それが熱帯雨林というものなのですね。
 これでは緑の楽園というより、緑の牢獄といったイメージのほうが相応しいですね。
 従って、密林の地上には基本的には哺乳動物は棲めません。せいぜい地面をほじくって地虫の類を漁る小獣ぐらいしか生きては行けません。
 そんな特殊な環境に適応して発展した唯一の哺乳動物が、霊長類、つまりサルなのです。尤も、これももっぱら木のてっぺんの、つまり樹冠の世界の住人の仲間ですが。つまり、地上でなく熱帯雨林の樹上の生活にのみに適応するように進化した特別な哺乳類、それがサルなのです。
 そのサルが、ひとたび地上へ下りた時、人類が生まれました。森の住人が草原(サバンナ)に降り立った時が、私達の起源なのです。
 同じような豊穣幻想に、大海原というものがあります。
 太平洋や大西洋のような、360度すべて水平線というような大海原には、私達の先入観念として、マグロやカツオのような大型回遊魚が往来し、クジラが潮を吹き、巨大な大王イカが深海から浮き上がって来てシャチと格闘し、下手をすればジュラ紀の恐竜の生き残りだって潜んでいそうなイメージがあります。
 しかし、嘗て船が難破した家族が救命ボートで何十日も大海原を漂流した実話を読んだことがありますが、救命ボート備え付けの釣り道具があっても、大海の真っ只中では雑魚さえも一匹も釣れず、ときたま海亀が波間に浮かんで昼寝しているのを、苦心惨憺して捕まえたのが唯一の食料だったということです。
 広い、深い海は豊かな生命が溢れているようなイメージがありますが、実は深い海は、その底はもとより、その水面近くにも生命は乏しいのです。
 海の生命は、深海の特殊な生命以外は、すべて太陽の光線のエネルギーを取り込んで生命を維持しています。ところが深い海では、太陽の光線は水中を通過して行き、次第に弱まって、海底に着く頃にはそのエネルギーの殆どすべては失われ、海底は永遠の闇の中に眠る死の世界です。
 海の生命の殆どは、大陸の周辺にある、水深百メートル前後かそれ以下の「大陸棚」で生まれ育っているのです。
 そのくらいの水深だと、太陽エネルギーは海底まで届いて充分有効に働き、海藻は日光を浴びて繁殖し、植物プランクトンも増殖し、それを食べる動物プランクトンも増え、食物連鎖が成立して、それこそ「豊穣の海」になるのです。
 豊穣の海は浅い海、つまり太陽の光線が海底に充分届く海のことなのです。
 陸の影の全く見えないような(つまり大陸棚から外れた)深い海では、海藻も生える所がないから魚の卵も産みつけられず、小魚がいなければそれを狙う回遊魚も寄り付かない。プランクトンがいなければアミも増えず、それを餌にするクジラもやって来ない。
 つまり大海原の真ん中は不毛の海なのです。
 膨大、というものと、豊穣、というものとは、必ずしも一致しない。大海原には膨大な量の海水がありますが、だからといって豊穣な生命が存在するということにはならない。それは膨大な地面がある砂漠が生命に乏しいのと同じようなものですね。大海原というものは、海の中の砂漠なのかも知れません。
 同じように熱帯雨林も、あるのは膨大な量の緑だけで、イコール豊穣な生命ということにはならない。
 しかし、今ふと気がついたのですが、ボクは密林も大海も豊穣だなんて一度も思ったことはないよ、とおっしゃる方も居られるでしょうね。そんな方には、この文章は、いったい何の意味があるのだろう、と思ったら、急に空しくなってしまいました。ああ!

                               

 
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