隠居のうんちく



 
                         中世の技術革新――木工編

                               

 世界三大発明は紙、火薬、羅針盤だ、とか、ルネッサンスの三大発明は活版印刷、火薬、方位磁針だ、とか学校でも習ったと思いますが、もっと身近な木工の世界では、日本では中世の頃に、けっこう幾つか「小さな大発明」があったようです。

 箍(タガ)
 箍とは竹で編んだ輪です。それがどうして大発明なのか、といえば、この発明で樽とか桶とかが生まれたからです。
 竹のタガが生まれたのは室町時代だそうですが、それまでは、液体の容器としては、例えば「刳り鉢」のように木を刳り貫いたもの、「曲げ物」のように薄く剥いだ板を円く曲げて底を貼りつけたもの、「壷」のように土を捏ねて焼いたものしかありませんでした。
 これらはいずれも、どうしても大きさに限界があったし、持ち運びには不便が伴いました。刳り鉢はどんなに大木でもその直径以上には大きく出来ないし、だいいち重くて運びにくい。曲げ物もそんなに大きい一続きの板を作って、しかもそれを円く曲げるなんて至難だし、なにしろ薄くなければ曲がりません。薄ければ割れ易いし、しかも底は貼り付けただけですから大きな容器はその中に何かを満たして運ぶと途中で底が抜けます。壷はかなり大きくは出来るが、運ぶ途中で何かにぶつけたら一巻の終わりになる。
 それに引き換え、タガの発明によって生まれた樽や桶は、何枚かの湾曲させた板をぴったり合うように削って、タガで締め付ければいいのですから、大木でなくとも沢山材料が取れるし、材木の直径に制限されずに縦に板が取れるから、大きさにも取り敢えず限界がありません。また運搬にも、板を厚くしタガを太くすればいくらでも頑丈に出来るので、支障ありません。
 こうして生まれた樽や桶の恩恵をいちばん受けたのは、酒造りでした。
 それまでは、酒は甕で醸し、壷で運んでいましたので、一度に出来る量も、売買する量も、自ずと限界がありました。
 ところが樽の発明によってその限界が突破されました。酒を醸す巨大な樽が林立し、頑丈な四斗樽が量産されました。つまり、家内作業的な酒造りが一挙に大量生産的酒造業に変貌したのです。
 こうした過程の中で、お酒と杉との間には切っても切れない縁が生まれました。
 関西の酒造りには吉野杉が、関東の酒造りには秋田杉が、樽材としてなくてはならないものになりました。灘の酒を江戸に運ぶのも吉野杉で作った船でした。酒を詰めて船に積み込む樽の杉の香りは酒の風味をいっそう引き立てました。
 これもまた、他でもないタガの発明の齎した恩恵なのです。
 勿論、お酒だけでなく、醤油や味噌の大量生産、大量運搬、大量販売も、大桶の、つまりタガの発明のおかげなのは言うまでもありません。

 鉋(かんな)
「飛鳥板蓋宮」という名前が歴史の授業に出てきたことがあるでしょう。皇極天皇といえば、例の中大兄皇子が蘇我氏を滅ぼした乙巳の変の時の天皇(女帝)ですが、日本書紀によれば、この天皇は、東は遠江、西は安芸の国々から人夫を動員して、板蓋宮を造営させたそうです。乙巳の変で一旦退位してから、次の孝徳天皇が死去したので、彼女は斉明天皇として再び位に即きましたが、その時即位したのが飛鳥板蓋宮です。この天皇はたいへんな工事好きで、今でも飛鳥地方には石造の遺跡が多いが、その大半はこの天皇が造らせたものだと言われています。そんな大工事好きの天皇が、東海地方から中国地方までの人夫を掻き集めて造らせた皇居が「板葺き」だ、というのは、なんだか首を傾けたくなりませんか?
 我々が板葺きの屋根と聞くと、いかにも粗末なバラックを連想します。いまにも雨漏りがしそうで、せめて藁葺きのほうがまだマシという気がします。
 なぜそんな食い違いが出来てしまったか、というと、実は当時と今とでは「板」というものに対する価値観が全然違うからなのですね。
 当時は、板を作るのには大変な手間暇がかかったのです。
 その頃の板の作り方は、まず斧で木を切り倒し、楔や玄翁を使って丸太を裂いて、それをチョウナという道具(ジョレンのような、幅広の鍬のような形の道具ですね)で少しずつ打ち削って角材にします。それを板にするには更にそれを削って薄くしていくのです。ですから、一枚の板を作るのにたいへんな手間とたいへんな材木が費やされ、たいへんな量の木屑が出ました。板の表面を滑らかにして見栄えをよくしようとすれば、そのうえ、ヤリカンナという柄の長いナギナタのような形の刃物で表面を削らねばなりません。
 ですから、そんなたいへんな手間をかけて作った板を、大きな屋根いちめんに、それも瓦のように少しずつずらしてずらっと並べるなんて、まさに気の遠くなるほど勿体ない贅沢な浪費だったのでしょう。今の感覚で言えば一万円札を並べて屋根を葺くような感じだったのではないでしょうか。
 だから、飛鳥板蓋宮は、当時としてはまさに皇居に相応しい、豪勢な宮殿だったのですよ。
 中世の絵巻物などでは建築現場では盛んにこのチョウナを使う人物が描かれています。登呂遺跡(一世紀頃)の出土品の木片に、既にチョウナの削り跡があるそうですから、その歴史は長いのですね。
 ところが、室町時代の頃、中国から台鉋(だいかんな)が伝えられてから、事情は一変しました。
 また、ちょうどその頃、鋸の世界でも大転換がありました。丸太を輪切りにする「横挽きの鋸」は、仏教の伝来と共に飛鳥時代から既にわが国に紹介されていましたが、丸太を縦に裂くのは前述のように楔を打ち込む方法しかありませんでした。ところがやはり室町時代の半ばに、丸太を縦に切る「縦挽きの鋸」がわが国に普及しました。
 丸太を縦挽きの鋸で大雑把な板に挽き、それに台鉋をかける。こうして、鋸と鉋とが相まって、板の製造が格段に容易になりました。容易になると、とたんにその価値は下落します。それ以来、板葺きの屋根は、豪勢どころか、みすぼらしいあばら家の象徴とみなされるようになり、今に至っています。
 その間の事情は、話が飛ぶようですが、アルミニュームの歴史によく似ています。アルミニュームは、十九世紀の初めに発見されて以来、その精錬が難しいため、生産量が極端に少ないので、百年余りの間、貴金属として扱われていました。なにしろアルミニュームは「電気の缶詰」と呼ばれるほど、その生産には電力が大量に要るのに、当時はそんなに社会に発電力がなかったのです。ですから、当時はやんごとない貴婦人などが貴金属としてアルミニュームの指輪や耳飾などを身に付けてしゃなりしゃなりと舞踏会へお出ましになったりしていたのです。ところが二十世紀の後半になり、発電技術や装置が発達し供給発電量が飛躍的に増えると、世界各地で大量にアルミニュームが出回るようになり、今ではごく普通の産業用の金属の一つになってしまいました。アルミニュームはジュラルミンなどの合金の材料として、貴婦人の襟飾りならぬジェット機のボディとして活躍しています。
 アルミニュームが宝石扱いからヒコーキのボディに役割変更になったのも、もう一つの技術革新ですが、それは箍にも鉋にも訪れました。
 いまやお酒造りは杉の大樽の代わりにプラスチックでいくらでも大きな容器が作れます。ガラス繊維と組み合わせれば、強化プラスチックとして強度にも心配ありません。いまや、箍なんてものの出番はなくなりました。
 鉋も鋸も同じです。電動鉋やチェーンソーが現われ、今の製材所や大工さんの仕事場では、まるで豆腐を包丁で切るようにあっさりと、角材でも板でも出来ていきます。それとコンピューターとが組み合わされると、自動的にいくらでも作れます。台鉋も縦挽き鋸も、お呼びではありません。
 箍が曲げ物を駆逐したように、鉋がチョウナを前代の遺物に変えたように、ある技術革新は以前の発明を無用の長物と化し、そしてそれもまた、次の技術革新によって滅んでいくのですね。

                               

 
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