隠居のうんちく



 
                         無益なものが、何故

                               

 縄文時代以前には、女性には生理というものがなかったのだそうです。
 人間の体には、無駄なものは付いていない、というのが普遍的な真理の筈です。例えば前にも書きましたが成人病のための悪玉である「コレステロール」も、文明社会の今でこそ悪玉ですが、人類が原始状態にあった頃には狩りのための決め手として人類生存のために大いに役に立っていたのだそうです。それがたまたま悪玉にされたのは、永く見積もってもたかだかこの数千年くらいの人間生活の変化(狩りが生活の主流でなくなったこと)の結果に過ぎない。
 このように、現代人にとっては無益有害なものでも、原始時代からひっくるめて人類という動物にとっては、その体に有害無益なものが存在する筈はないのは、「進化論」から推しても当然です。そんな存在は進化の過程で淘汰されてしまう筈ですから。
 ところが、人類の体には、どう考えても有害無益としか思えないものが存在します。そして、それは現代人にとってだけではなく、たとえ原始人であっても、やはりそうだった筈なのです。
 それは女性の生理です。
 月に一度血液を失うことが、人体にとって無害な筈はありません。しかもそれを上回るメリットがなにかあるとはどうも思えない。
 どうしてそんなものが、自然淘汰によって進化して人類の体から除去されず、原始時代以来ずっと保持されたままなのか。
 その答えは遠藤秀紀氏著「人体 失敗の進化史」によりますと、冒頭に記したように、原始時代には生理というものはなかったからだ、ということになります。
 ご存知のように赤ちゃんが生まれると授乳期間は母親の生理が停止します。人工授乳も離乳食もなかった時代には、生まれて三年くらいは子供に母乳を飲ませていました。
 当時の女性の平均寿命は三〇歳くらいだった。そして一人平均五回くらい出産したらしい。当時女性が妊娠可能になるのは一五歳くらいでしたし、妊娠可能になったらすぐに妊娠したろうと思われます。
 すると、一五歳で妊娠出産して三年授乳し、離乳するとまたすぐ妊娠出産して授乳します。
 五回出産すると三年×五回=一五年です。一五歳+一五年=三〇歳です。
 つまり、当時の平均的な女性は一生に一度も生理の機会がないまま、寿命が尽きてしまったのです。
 というわけで、当時は生理というものはなかった……あるいはごく例外的な現象だったのです。
 しかし、すべての女性が一生に平均五回ぐらいずつ出産していたら、まさにネズミ算的に人口が増えて、たちまち地球は満杯になってしまった筈だ、と首を傾げるかたも居られるでしょう。でも、縄文時代以前には(いや、それ以後も、かなり近年になるまで)乳幼児の死亡率はたいへん高く、半分以上は成人前に死亡した筈ですし、出産時に死亡する母親も多かった(昔話には継母がよく出てくるのはそのせいだそうです)。だから逆に、女性は一人で五人ぐらいずつ子を産まないと、人類社会は人口を維持出来なかったのです。
 いわば、人類にとっては、一個の卵子だって貴重であって、それを無駄に月に一度排棄するなんていうことは許しがたいことだった。もしかしたら、そんな無駄へのお仕置きというか警告として、生理というものが生まれ、維持されてきたのかも知れません。
 つまり、当時は作られた卵子が受精しないことのほうが例外的な現象だったのだが、文明社会では人間の生活がすっかり変り、逆に卵子が受精することのほうが、女性の一生のうちでせいぜい一度か二度の例外的な現象になってしまいました。
 しかし、文明や文化の変化のスピードと事変り、体の進化は百万年単位で起こるのが普通です。いちばん短くても数十万年はかかります。たかだか数千年に過ぎない人間生活の変化には、体はとうてい対応出来ません。
 こうして、人類の女性にとって、今や生理が普遍的恒常的な現象になってしまったというわけでしょう。
 これさえなかったらどんなにいいだろう、という女性の声をよく聞きますが、さて、これのなかった縄文時代の女性と、どちらのほうがいいですか?

                               

 
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