隠居のうんちく



 
                         江戸の歩き

                               

 落語なんかに、よく「おい、八つぁん、ちょいと仲でもひやかしてこようじゃねーか」なんてセリフが出てきますよね。
 「仲」とはもちろん吉原の仲見世ことで、江戸の職人仲間などが、仕事あがりに一っ風呂浴びてから、登楼するほどの余裕はないにしても、ちょっと仲をぶらついて、客引きの女郎なんかをからかって暇つぶしをしよう、という気分ですね。
 さしずめ現代でいえば、会社帰りにちょっと盛り場へ足を向けて、ガールハントとまではいかないが、街角で行きずりの女の子なんかに声をかけてちょいとおしゃべりでも楽しもうか、といったようなノリでしょうか。いつの世でも若者の生態は似たようなものですね。
 ……と思ってから、ふと気がつきました、江戸時代には地下鉄もなければ国電もない、バスもなければタクシーもない、いわんやマイカーもない。あるのは自分の二本の足だけです。
 おまけに吉原は江戸の外れです。当時吉原の遊郭は田んぼの真ん中にあったようで、お上が風儀上宜しからずと、町外れに追いやったようです。もともとヨシワラとは「葦原」が語源だそうです。
 最近知ったのですが、お江戸のお臍(中心)の日本橋から、吉原までは、徒歩では一時間も掛かったとのことです。
 また、今の若者が「ジュクもいいけど、今日はちょっと気を変えてブクロにでも足を伸ばすか」というように、当時の若者が、ちょっと気を変えて、というと、格調高い吉原とは違って気の置けない品川宿の妓楼へと足を伸ばしたようです。
 その品川までは、日本橋から歩いて二時間は掛かりました。
 仕事上がりに一っ風呂浴びてから、ちょいと女郎をからかいに行く、といっても、歩いて片道一時間ですよ!
 ちょっと気を変えて……というと、歩いて片道二時間!
 もちろん、乗り物としては駕籠というものはありましたが、二人の駕籠かきに前後を担がれてそんな距離を吉原へ乗りつけて行けるのは、大店の旦那くらいのもので、金が掛かる上に、スピードは歩くのとさして変らず、おまけに歩くのよりよっぽど疲れる(早駕籠で遠い国許へ急いだ使者が、着いて報告を終えたとたんに死んだという話があるほどです。とにかくよく揺れるので、腸捻転を起こすらしい)。余談になりますが、江戸時代のお上は、車輪の付いた乗り物はいっさい禁止していました。
 ともあれ、当時は、アフターファイブのちょいとした暇つぶしでも、てくてく歩いて往復二時間。現代ならちょっとしたハイキングですよ。
 今の我々の生活では、歩くということは、せいぜい十五分くらいのもので、それを超えるとデモンストレーションなど、イベントとしての特別の歩きか、またはとんだ災難ということになり、流しのタクシーでも通りかかれば、たちまち呼び止めてしまう。
 でも、江戸時代の人たちには、おそらく一時間程度の歩きは、我々の十分程度の歩きの感覚と同じだったのではないでしょうか。同じ江戸の中でも、ちょいとした用足しとなると、すぐ半日くらい歩くのは当然のことで、そのくらいの歩きはなんの苦にもならなかったのでしょう。
 ちなみに当時は、歩くということは早足で歩くことであって、昨今の我々の散歩の時のようなぶらぶら歩きというものは存在しなかったようです。歩くというより、我々の感覚で言えば小走りといったほうがいいのが、ノーマルな歩き方であって、今時の散歩の歩調などは、当時だったら「野良犬の川端歩き」と言われて蔑まれ、堅気の人間のやることではないと思われていた。
 当時の交通機関は歩きだけだし、通信機関も歩いて届けるしか方法がなかったのだから、社会活動全般が、みんなそのくらい早足で歩いていないと間に合わなかったのではないでしょうか。
 そんな当時の人々の健脚をささえていたものは何か? それは「ナンバ歩き」です。
 というように、隠居のウンチクは、なにかというと結局ナンバ歩へと収斂しがちです。しつこいのです。
 隠居は、町に出れば早速鋭い目つきで行き交う人々の歩き方を観察します。
 そして、発見しました、現代においても、通行人の四割近くは、恐らくはそれと自覚せずにナンバ歩きをしている、と。
 特に、両手に荷物を下げている人、太ったひと、妊婦、老齢者、足の悪い人、の多くはナンバ歩きです。
 ここで(しつこく)お浚いをしておきましょう。ナンバ歩きの特徴は、必ずしも右足と右腕とを同時に、左足と左腕とを同時に、前に出すことではないのです。腕は、常に勝手にぶらぶらさせていて、ある場合には右足と右腕が逆に振られることもあるのです。要は、腕をことさら逆に振って上半身を捻り、その反動で下半身を捻って前進する、という(今の学校で教わる)捻り歩行をしない、というのがナンバ歩きの特徴なのです。
 つまり「捻らない」「踏ん張らない」「蹴らない」。ひたすら体重移動によって前進する。
 ちょいとした用足しにも半日は歩き、仲を冷やかすだけでも二時間は歩かなければならなかった江戸時代の庶民が、生活の必要から生み出した究極の省エネ歩行法こそがナンバ歩きだったのでしょう。

                               

 
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