隠居のうんちく



 
                         黄金あれこれ (その二 古代の黄金運搬船)

                               

 古代、黄金運搬船が、日本から中国へ通いました。
 古代日本の文化は、圧倒的に中国の影響を受けて発達しました。
 飛鳥時代、聖徳太子の派遣した「遣隋使船」の齎した仏教その他。天武、持統天皇から奈良時代にかけて、「遣唐使船」の齎した「律令制」はじめ、政治、芸術、風俗、思想全般。
 それらの船は、朝廷が派遣したものですが、しかし、派遣したからといって、自動的に中国文化が齎されるものではない。
 端的に言えば、それは、遣唐使船に積み込んで運んだ黄金によって買い込まれたものなのです。
 日本の華麗な天平文化は、「黄金によって買われた」ものなのです。遣唐大使には砂金二〇〇両が、そして留学僧たちにも大量の砂金が朝廷から与えられました。
 空海(弘法大師)は、二〇年分の滞在費として与えられた砂金をたった二年で使い果たしました。何に使ったかといえば、真言密教の教えを買うために使いました。写経生を沢山雇い、片っ端から教典のコピーを作らせて日本へ送り、仏像、仏具その他を砂金で買いあさり、遣唐使船で日本に送りました。
 遣唐使船は砂金を中国へ運び、中国文化という無形のものを日本に運ぶ運搬船だったのです。
 もしかすると、こんな当時の日本人の砂金遣いの荒さというか、砂金離れのよさというか、それが、中国はじめ当時の世界の人々の誤解を生み、マルコポーロなどによって黄金の国ジパングという幻想が広まり、その幻想がコロンブスやらマゼランやらバスコダガマなどを、極東に向って引き寄せることになったのかも知れませんね。
 では、当時の日本にはそんなに黄金が有り余っていたのか、というと、どうもノーのようです。
 というのは、奈良時代後期から平安時代にかけて、それまで金銅仏が主体だった日本の仏像が、俄かに塑像とか乾漆像とかが多くなり、やがて木造仏が主体になってしまったのには、実は聖武天皇が東大寺の大仏を建てるにあたって、金属を……特にメッキするための黄金を使い果たしてしまったのが原因、と言われているからです。
 日本国中の黄金が、大仏一つを建てるだけでスッカラカンになってしまうようでは、とても黄金が有り余っていたとは思えないではありませんか。
 当時の朝廷はそれこそ、なけなしの砂金を洗いざらいかき集めて、遣唐使船へ積み込み、送り出したに違いないのです。それだけ当時の朝廷は文化に飢えていた……というか、貧乏人の親がわが子に学力を付けさせるために三度の食事を二度に減らしてでも学費をひねり出そうとするのと同じようなものだったのでしょうか。

                               

 
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