日本では、日常の買い物や給料などには「円」を使うが、商取引や投機などには、関東では「ドル」を、関西では「ユーロ」を使います。
なんてことはありませんよね。。
でも、江戸時代の日本では、これと同じようなことをやっていたのですよ。
当時は、日常の買い物や労賃などには銅貨(銭)が用いられましたが、商取引は、関東では金貨(大判小判)、関西では銀貨が用いられました。
それだけならどうということはないでしょうが、実は、その銅、金、銀の間の換算は、変動相場制だったのです。
今テレビでは毎日、今日は円安だ、ドル高だ、ユーロは乱高下だ、などと報道しています。つまり、円とドルとユーロとの間の換算率は時々刻々変っているのですね。
ちなみに、隠居の若かりし頃、一ドルは三六〇円でした。今は一ドルは一〇〇円から一五〇円の間でしょうか。海外旅行するとき、空港で両替するとき、得したような気になったり損したような気になったりするのは、換算率が変動するからですね。
江戸時代の日本では、それを銅銭と銀貨と金の小判との間でやっていたのですよ。
さぞかし煩わしいことだったろう、と同情する必要は、実はありません。当時の庶民の間では、一生の間小判や銀貨なんて一度も見ないまま死んで行った人だって珍しくはなかった。そんなものを見なくても銭さえ見ていれば生きて行けたのです。ちょうど、今の日本の庶民のうちにはドルやユーロの紙幣を見たことがなくても生きて行ける人がいるのと同じです。
歌仙「猿蓑」の「夏の月の巻」に芭蕉の「此筋は銀も見しらず不自由さよ」という句がありますが、これは当時のそんな通貨事情を知らないと、よく判らない句なのではないでしょうか。つまり、関西の裕福な旅行者が関東の片田舎の茶店かなにかに立ち寄って、茶代を置くついでに、銀を崩して銭に替えてもらおうとしたら「いってえなんだべえ、これは? 初めて見ただよ」なんて言われてしまったんですね。
落語なんかで、たまたま小判を手に入れた八ツアンのところへ、同じ長屋のお婆さんが、死ぬまでに一度小判というものを拝んでみたい、といって出かけてきたりするのも、そんな事情のせいなのです。
金と銀と銅の通貨は、それぞれ数え方が違います。
金は、一両が四分、一分が四朱
銀は、数ではなく、重さ(匁)で量りました。この箪笥の値段は銀何匁、といった具合に。
銅(つまり銭)は一貫が一〇〇〇文(一貫とは四分の一五kg)。
尤も、いくら変動相場だといっても、そんなに大幅に変動してばかりいたら、経済界が混乱しっぱなしになります。
安定期のだいたいの換算率は、いちおう、
金一両=銀六〇匁=銅四貫
といった程度だったようです。だから、
金一両は、銭四〇〇〇文くらい。
銀一匁は、銭六七文くらい。
といったところでしょうか。
でも、繰り返しますが、庶民は、そんな換算なんかには殆ど関係なく、銭だけで暮らしていたのです。たまたま支払いを金か銀で受けた時には、巷の「札差」という両替屋へ行って、使い勝手のいい銭に替えてもらえばいいのですから。
以上は、堀井憲一郎さんのウンチクの受け売りです。
それぞれの貨幣の値打ちは、今のお金に換算するとどの位?
それは、何を基準にして比べるかで、だいぶ違ってきますね。お米の値段か、家賃かでは、随分違ってきそうです。また江戸時代の初めか、中ごろか、終わりころかでも違います。
私は一両は今のお金で一〇万円程度と考えることにしていますが、一両は三〇〇万円程度という人もいるようです。
仮に一両を一〇万円だとすると、 千両箱は、一億円になりますね。銀一匁は一七〇〇円程度、銭一文が二五円。だいたい二文で五〇円と思えばいいでしょうか。
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