隠居のうんちく



 
                         主役は足軽

                               

 隠居は、かねがね応仁の乱から戦国時代にかけて、なんで大名たちはあんなに戦争ばかりやっていたのか、どうも腑に落ちませんでした。なかんずく、その戦争の度ごとに動員されて最前線で戦わされた「足軽」の心理が、まことに不可解でした。
 だって、その足軽たちは、本来農民で、戦争の度に狩りだされて、敵方の足軽(農民)たちと殺しあうのだから、いくら無理やりやらされて、やらないと殺されるとはいえ、やっぱりそんなに熱心にはなれないだろうし、隙をみて逃げ出すチャンスもあったろうに、どうもあの足軽たちは、いやいやながらとは見えないほどあまりにも熱心に戦いすぎる、という印象を持っていたからです。
 なにしろ当時の戦争では、軍隊の九割は徒歩の足軽で、騎馬の武者は一割にすぎなかったのですから。早い話が当時の戦争は、足軽同士の戦いがメインだったのです。だから、足軽がちゃんと戦わなければ、戦争が成り立たなかった筈なのです。でもどうして彼らはそんなにちゃんと戦えたのだろう。
 ところがこの度、黒田基樹著の「百姓から見た戦国大名」(ちくま新書)を読んで、愕然としつつ、深く納得がゆきました。
 戦国時代の戦争の、真の要因は武士よりも農民であり、戦争をやりたがったのはむしろ「村」のほうであり、戦争の目的は、どうやら足軽たちの略奪だったらしいのです。
 戦国時代の人口動態を調べてみると、平均して毎年春から夏にかけて死亡率が上がり、秋から冬にかけて下がっていた、ということが判ってきました。つまり、死者のかなりの部分が餓死者だったと推定される、ということです。
 それが、飢饉とか天災の年だけでなく、普通の年でも、そうなのです。
 つまり、当時の食料生産量は全人口に対して絶対量が足りなくて、毎年必ず誰かしらが餓死しなければならなかったということです。平年でもそうなのだから、凶作、飢饉の年ではなおさらです。
 そこで、自分の村から餓死者を出さないためには、他の村から不足分を略奪して来なければならない。そして、略奪された村の住人は、餓死しなければならない。
 となると、その戦いは、嫌々どころの騒ぎではなく、まさに死に物狂いのものになりますよね。それが戦国時代の足軽同士の戦いだったのです。
 当時は、そんな村同士の武力闘争が頻繁にありました。農民は武器を操る戦士でもあったのです。
 戦いの種は、境界争いや水争いなど、いろいろありました。尤も、多くの場合それは口実で、真の目的は略奪だったのかも知れません。
 そんな戦いでは、双方の村はそれぞれ、近所の村々に応援を頼み、その代わり相棒たちが戦う時にはこちらも応援に駆けつけます。
 そんなふうに戦いあう村同士が、たまたま大名同士の境界を挟んで対峙していた場合は、どちらの村もそれぞれの領主に応援を頼みます。領主は領民のために応援に駆けつけます。
 こうして戦国時代の大名同士の戦争が始まります。
 逆の場合もあります。
 ある大名の領内が凶作で、このままでは飢饉で餓死者が出るのが避けられない見通しとなると、領民たちは、領主に戦争を要求します。そうすれば他領の村に略奪に出かけることが出来、自分の村から餓死者を出さずに済むからです。
 もし、領主がその戦争を拒むと、領民も、領主の部下(領民に餓死されると自分たちも危うくなる)も、その領主を見放します。つまりクーデターを起こします。
 NHKで放映された「風林火山」での、武田信玄の父親追放事件は、実はその一例なのだそうです。あの事件の前後は甲斐の国は凶作で飢饉に襲われており、信玄の父はそれに何の手も打とうとしなかったために、部下からも領民からも見放された、というのが真相だったようです。信玄は、政権を奪取すると、直ちに信州諏訪に向って進軍を開始し、その足軽どもは存分に信州の村々を略奪し、自分の村人達を餓死から救い、信玄公は名君としての誉れを得ました。信玄は生涯、自分の領土では戦をしないことで名高かったけれど、それは自分の領土での略奪を避けた、ということですね。
 一般に、大名と農民、というと、搾取と隷属というイメージが浮かびますが、実は戦国時代の村は、けっこう大名に対して、弱い立場ではなかったようです。
 何よりも注目しなければならないのは、当時全国的に、耕地の四割以上は常時耕作放棄されていた、ということです。
 つまり、土地はあっても耕す農民が足りなかったのです。必要労働力の六割弱しか供給されていなかった。
 上述のように、飢饉と戦争の悪循環(飢饉で略奪戦争が起こり、耕地が荒らされ、ますます飢饉になる)、疫病などで農民人口が減り、土地はあれども働き手は不足、という、まさに農業労働界は「売り手市場」だったのです。
 ですから、前述の「略奪」には、食料だけではなく、人間も含まれていました。他所の大名の領地に攻め入ると、足軽たちは、そこの農民を「拉致」してきて、奴隷として自分の村の田畑の耕作をさせるのも、戦争の常態だったのです。
 そんな力関係だったから、大名が、ちょっと農民に無理な年貢を要求すると、農民は村ごと隣りの大名の領地の「休耕地」へと逃散してしまう。受け入れ側は大喜びで、入植後一、二年は開墾のために年貢を免除してくれる。なにしろ空いている耕地はふんだんにあるのですから、いくらでも受け入れられます(当時開墾というと、たいてい荒地ではなく、耕作放棄されていた耕地の再耕のことでした。)。
 不当な搾取をされなくても、例えば水害などで凶作になったのに、領主が無策で、このままでは餓死者が出るだろうという年には、農民たちはさっさと逃げ出して、戦争を起こして足軽に略奪をさせてくれそうな大名のもとに逃げ込み、そこの休耕地で耕作を始めます。
 勿論、常にそううまくいくかどうか判りません。逃げ込んだ大名が弱くて負けたら、大変なことになりますから、農民も常に、のるかそるかの選択と行動に迫られていたわけです。
 ですから、大名は、常に領地の農民の顔色を伺っていなければならなかった。
 場合によっては、領民の要求に応じて戦争も起こさねばならなかった。
 前述のような村同士の争いに、もし領主が助力しなかったら、そして別の大名が助力を申し出たら、その村はそっくり村ごと別の大名の下に帰順し、その領地になってしまうことだってありました。
 つまり、当時の諸問題のいちばん根底には、常に「村同士の武力闘争」があったのです。村と村との戦いが、地域同盟同士の戦いに、そしてついには大名同士の戦いへと連動していたのです。
 応仁の乱から戦国時代、そして信長、秀吉、家康の全国統一までの社会の推移は、要するにその「村同士の武力闘争」をどうするか、の推移でした。
 戦国大名の成立とは、領内での村同士の武力闘争を禁じ、その代わりに領主による裁定ないし調停によって事態をおさめる機能と権限の成立のことでした。
 全国統一政権の成立とは、村同士の武力闘争の代理としての大名同士の武力闘争を禁じ、その代わりに平和的な解決のための裁定、調停を行う統一的全国的機能の成立のことでした。
 だから、有名な豊臣秀吉の「刀狩り」は、紛争解決のための「村同士の武力闘争」を根絶するためだったのです。村同士の紛争は、すべて領主が解決する、というシステムの確立のためだったのです。
 普通、飢饉の解消は生産力の向上によってもたらされるものですが、実は、戦国時代から江戸時代にかけて、毎年の常態としての飢饉、餓死が解消されたのは、生産力の向上ではなく、社会体制の整備(なかんずく紛争の調停機能の整備)によったのだ、ということです。
 信長から家康にかけての、天下統一の志向の意味とは、そういうものだったのですね。
 江戸時代の飢饉は、あれは観念的な「米の生産絶対優先政策」から生まれたのだそうですが、それはまた別の話になりますね。
 どうですか? 私達のイメージの中の「農民」(江戸時代以降の、武器を取り上げられ、牙を抜かれた農民)と、当時の農民の実像は、ずいぶん違っているでしょう? つまりそれは、野獣が家畜化する過程だったのですね。

                               

 
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