隠居のうんちく



 
                         表記と発音

                               

 隠居の小学生時代は、一九四五年(昭和二〇年)までだったので、義務教育(当時は小学校だけ)はすべて旧漢字、旧仮名遣いでした。
 旧仮名遣いでは、例えば「蝶々」は、発音は「チョウチョウ」ですが、平仮名書きでは「てふてふ」でした。
「泥鰌」は、発音は「ドジョウ」だが、平仮名だと「どぜう」でした。
「学校」は、発音は「ガッコウ」だが、平仮名では「がくかう」でした。
 そんなふうに、発音と平仮名書きとが違うケースが、旧仮名遣いでは沢山ありました。
 当時は、国語とはそういうものなんだ、と決め込んで、不思議にも思わなかったのですが、後年折りに触れて、ふと、あれはどうしてだったんだろう、と首を傾げることがありました。
 もしかしたら、これがその訳かも知れない、と思い当たるヒントに出会ったのは、亡くなった米原万里さんのエッセイの中ででした。
 英語にもやはり、綴りと発音との食い違いが随分あるのは、皆さんご存知の通りです。
 たとえば心理学という意味の「psychology」は、発音では「サイコロジー」です(本当は発音記号で表さなければいけないのでしょうが、便宜上カタカナ書きでご勘弁下さい)。
 この言葉は、「心」を意味する「psyche(プシュケー)」と、「学」を意味する「logos(ロゴス)との複合語です。
 ですから、元々は「psychology」は「プシュコロジー」と発音されていた筈です。
 ところが、年月が経つうちに、「発音」のほうは変化していって、いつしか「サイコロジー」になってしまった。でも、「綴り」のほうは、最初の通り「プシュコロジー」のまま変わらなかった。
 こんなわけで、英語には発音と綴りとのズレがあちこちに存在するのだ、というのです。
 一般に「発音」というものは、個人差もあるし地域差もあって、けっこう変化し易い。
 でも「綴り」というものは、紙なりパピルスなりの上に書かれてしまうと、変化の仕様がない。
 そのうちに、綴りと発音がどうしようもなく差が開いてしまった時にも、英語では、綴りのほうを発音に合わせて変えようとはしなかった。なぜなら、その言葉の意味、つまり語源は、綴りのほうにあるので、それを変えてしまったら意味そのものがなくなってしまう、と英国人は考えたのです。
 ですから英語では、「発音」は単語の現在を、「綴り」は単語の歴史を、それぞれ分担していることになります。
 そして、その「発音」と「綴り」との間に生まれてしまった、どうしようもない差を埋めるために「発音記号」というものが発明されたのだ、というのです。
 こんな説を知った時、隠居はたちまち日本語の「蝶々」を思い出しました。
「蝶々」も、やっぱり最初は「テフテフ」と発音されていたのではないか。確かに、そのほうがあの昆虫が飛んでいる感じには相応しい。
 でもテフテフという発音はどうも言い難い。空気が漏れて聞きづらくもある。何度も言っているうちに「テ」が「チョ」になり「フ」が「ウ」になってしまった。そのほうが言い易いから、すっかりその発音が定着してしまった。しかし、それを書き文字にする場合は、初めの通り「てふてふ」と書き続けてきた。そのへんの事情は、英語の場合と同じなのではあるまいか。
 こうして「どぜう」も、年月が経つうちに発音が「ぜ」から「じょ」に変ったが、表記のほうは元のまま残った。
 「がくかう」も、発音は「がく」が「がっ」に変り、「かう」が「こう」に変ったが、表記は変らなかった。
 そういえば、「ぜう」よりも「じょう」のほうが口の形をあんまり変えなくて済むし、「がく」と角ばるより「がっ」と詰めてしまったほうが楽ですね。
「発音」は楽な方へ楽な方へと変化していくのでしょう。
 でも「表記」は例えば「じょう」より「ぜう」のほうが書きやすいし、「ちょうちょう」より「てふてふ」のほうが簡単だ、というように、一般に変えるメリットは特にない。だから表記は常に保守的になるのでしょう。
 言葉は生き物だから、生き物同様絶え間なく変っています。
 そして、その変化は、いつも発音から先に起きる。
 発音は、喋り易さが優先して変る。
 喋り易さには、その時代の生活のリズム感覚が関係していると思います。
 現代生活のリズム感覚には、ジャズが大いに影響を与えているでしょう。従って現代日本語の発音にはジャズのリズムの影響があるのではないでしょうか。
 それは、散文だけでなく、詩にも、そしてもしかしたら俳句にも。

                               

 
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