隠居のうんちく



 
                         名所余話

                               

「ナポリを見て死ね」という諺があるそうです。
 こう言われれば――じゃあ、死ぬまでに一度はナポリを見ておかなければ――と気合がかかります。
 だからイタリア旅行をした人は、たいていナポリへは立ち寄っているようです。そんな人に、
「どうだった、ナポリは?」と訊くと、異口同音に、首をかしげ、
「べつにどうってこともなかった」と、狐につままれたような顔をします。「どこにでもあるような、イタリアの普通の港だったよ」という感想が多いようです。
 そんな普通さが却ってよかった、という方もおられるでしょうが、でも、ナポリを訪れる人の大半は、なんとなく、それこそ日光の陽明門とか、ローマのコロッシアムとかギリシャのパルテノン宮殿とか、そういったような名所を期待して訪れるのでしょうから、どうも首を傾けたくなってしまうのでしょうね。
 しかし、それは冒頭に引用した諺の取り違えからきた期待と失望であって、べつにナポリの責任ではないのですね。
 ひところ、イタリアから、アメリカその他へ大量の移民が流出して行った時期がありました。
 そして、そのような移民の多くが、ナポリの港から船出して行ったのです。
 ですから冒頭の諺は、望郷の念の表現なのです。移民たちが、移住先の異国の空の下、死ぬまでに一度でもいいからまた祖国を見たい、船出してきたあのナポリの港へ再び帰航したい、というのが「ナポリを見て死ね」という諺の意味なのですね。
 つまり、それは余所者の旅行者に対する、ナポリは素敵だから死ぬまでに一度は見ておかないと損ですよ、というメッセージではないのですよ。
 話は変わりますが、唐詩選にある漢詩のうちでも、特に日本の読者に人気の高い「楓橋夜泊」という張継の七言絶句がありますね。
 月落ち烏啼いて霜天に満つ
 江楓の漁火愁眠に対す
 姑蘇城外寒山寺
 夜半の鐘声客船に到る
 戦後しばらくして中国旅行が解禁になった当初、旅行社は抜け目なく早速そのツアーの目玉として寒山寺をスケジュールに組み込みました。ところが、ご当地では、どうしてそんなにこの寺が日本人に人気があるのかさっぱり納得がいかず、それこそこんどは訪問された側が狐につままれたような面持ちだったようです。
 なにしろ、寒山寺とは、蘇州市の西郊外にあり、創建は五〇〇年代と古いが、度々焼失し、現在の建物は一九一一年(清朝末)に建て直された、特に目ぼしい旧跡があるわけでもない、なんの変哲もない小さなお寺だからです。
 どうしてそんなズレが生まれたのか、というと、実はこの詩の中の「寒山寺」は、固有名詞ではなくて、寒山つまり、葉の落ちつくした寒々とした山に建つお寺、という普通名詞だった、という説があるのです。つまりこれは必ずしも寒山寺をよんだのでなく、冬のお寺一般を詠んだものらしい、というのが植木久行氏のご意見です。
 この詩の「姑蘇城外寒山寺」は、普通「姑蘇城外の寒山寺」と読まれていますが、もし植木説が正しければ「姑蘇城外寒山の寺」と読んだほうがいいのかも知れませんね。
 この詩の題の「楓橋夜泊」の「楓橋」とは、寒山寺の傍にある橋の名前です。でも、この題は実は後世の誰かが付け直したものらしいのです。この詩の原題は「松江に泊す」だそうです。
「松江」とは、どの辺にある河なのか、それとも地名なのか、検索してみたのですが、日本の島根県の松江ばかり出てきてしまって、データが見つかりませんでした。蘇州に度々赴いておられるどなたかの知識を伺いたいものです。松江と蘇州市、松江と寒山寺の位置関係も知りたいものです。
 詩の中にある「江楓」とは、前述の「楓橋」と寒山寺の門前の「江村橋」とを纏めて言ったもの、とよく説明されているようですが、実は「江楓」とは単に水辺の楓のことらしいのです。
 ただし、「姑蘇」とは、呉の国の首都だった頃の蘇州のことだそうで、姑蘇城外とは蘇州市の郊外にあたり、いずれにせよ、この詩の舞台が蘇州の周辺であるのは確かのようですね。
 私はなんとなくこの詩は、海上の船から岸の山寺を望んでの情景のように思い込んでいたのですが、そうではなくて、長江の河口デルタに位置する水の都蘇州の、水路のひとつに浮かぶ船上から望んだ夜景なのでしょうね。
 ところで、その後、寒山寺でも関係者が、日本人観光客に刺激されて、大いにインフォメーションも充実させているようです。お陰で、二〇〇〇年度には寒山寺を訪れた観光客は一三八万人を数え、中国全体でも、少林寺に次いで第四位の観光客動員数を誇っているそうです(ちなみに、第一位は霊隠寺)。
 現在「夜半の鐘声」を響かせている鐘も、実はとっくの昔に失われて永い間鳴らされていなかったのを、一九〇五年に日本人の篤志家が寄付を募って造り、寄付したものだそうです。

                               

 
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