隠居のうんちく



 
                         腿と脛

                               

 隠居とつれない(つれあいの訛り)が並んで座ると、私のほうが五センチほど高いのです。
 でも、並んで立つと、つれないのほうが七センチほど高いのです。
 ……ということは、脚が……
 まあそれはそれとして、話題を脚だけに絞ると、
 ジェーン・フォンダやカトリーヌ・ドヌーブ(例が古いのはご勘弁を)が美しいのは、「腿」が長いからだ、と何かで読んで意外に思ったことがあります。隠居はなんとなく、美しい脚は「脛」が長いのだと思い込んでいたからです。
 ところが、美しい脚のポイントは脛ではなくて腿なのだそうですね。
 ところで、腿の長い脚と、脛の長い脚とでは、どっちが速く走れるか?
 その答えは「脛の長いほう」です。
 尤も、これは人間の脚ではありませんでした。
 四足の哺乳類の話です。
 馬、犬、ライオン、チータ……自然界のアスリートたちは、みんな「脛」が長いのです。そして腿は短く、太い。(いちばん長いのは、踵から爪先まで)
 それに引き換え、象や猿や河馬など、歩くのが得意な哺乳類は、みんな「腿」が長く、脛と腿の太さがあまり変りません。
 そして、万物の霊長である人間様はどうか?
 個人差はあるだろうが、馬と比べれば、歴然として、腿が長い部類に属しています。つまりジェーン・フォンダなのです。
 人間は歩くようにできているのです。
 では、歩くのが得意な人間(腿的哺乳類)が、走るのが得意な馬や鹿(脛的哺乳類)をどうやって獲物にすることが出来たのか?
 それには、どうやらコレステロールが関与しているらしいのです。人間の体の中にあるもので、無意味に存在するものなどはある筈がなく、コレステロールだって、それなりの意味があるのですね。
 追いかけるのと、逃げるのとでは、人間(腿的哺乳類)は鹿(脛的哺乳類)に、とうてい追いつけません。
 しかし、「脛獣」(なんて言葉は、隠居の造語ですが)は、瞬発力とスピードはあっても持続力は余り無い。
 一方、「腿獣」は、瞬発力とスピードは劣るが、持続力がある。
 従って、脛獣は追いかけられると一目散に逃げ切れるが、すぐに一休みしなければならなくなる。
 腿獣は、最初脛獣に差をつけられるが、相手が休んでいる間に黙々と差を詰めていく。
 早い話が、「ウサギとカメ」のお話ですね。
 結局カメがウサギに勝ったように、腿獣である人間は、最後には脛獣に追いついて仕留めることが出来るのです。
 ただし、そのレースは延々と長いものとなります。
 時には、数日、場合によっては十数日のこともある。追いついては逃げられ、また追いついては逃げられ、その止め処ない繰り返し。
 その間、双方とも飲まず食わず。なにしろ、その頃は、鉄砲もなければ鉄の槍もない。せいぜい石の鏃や、石を縛った棍棒くらいしか無かった(その頃の話をしているのですよ)。
 ですから、遠くから一発で仕留めるなんてことは、一切ない。
 つまり、すべては唯一つ、スタミナ勝負にかかっていたのです。
 どっちが先にへたばるか。
 そして、先にへたばるのは常に脛獣なのです。
 なぜか。
 それは、人間がコレステロールを持っているからだそうです。
 例えば「火事場のバカ力」という言葉があります。
 非常事態になると、普段出ないようなバカ力が、どこからか湧いてくる。
 どこから湧いてくるか、といえば、それはコレステロールから湧いてくるのだそうです。
 実際、非常事態でバカ力を出したあとで調べてみると、その人間のコレステロールが血管から消えうせているのだそうです。
 コレステロールは高カロリー物質なので、それを燃焼させると、いっぺんに大きなエネルギーが生まれます。それが「火事場のバカ力」なのです。
 人間が獲物を延々と追い詰めて、ついに獲物のスタミナが尽き、へたばってしまった時には、人間もまた、同じようにスタミナが尽きてしまっています。
 しかし、そこで人間も獲物と一緒にへたばってしまっていたら、仕留めることが出来ませんよね。やがて両者疲労が回復して、また追いかけっこが再開される、というのでは、キリがありません。
 そんな瞬間に「キリ」をつけさせるのが、コレステロールなのです。
 双方へたばった瞬間、最後の力を振り絞って、棍棒の一撃、槍の一刺しを行わせるのが、コレステロールだ、というわけです。獲物がくたばれば、もう後はゆっくる休んで、その後でご馳走にありつけばいい。
 しかも、そんな作業が、普通の生活の一部として常に存在していたのです。
 したがってそうした、最後の一打ち、最後の一刺しのために、人間の体にはコレステロールという貴重な財産が常に蓄えられているのです。これも人類の進化の賜物でしょう。
 ところが、現代社会では、そんな長距離、長時間の死闘なんか、およそ日常の中には存在しません。だから、コレステロールも使い道がなくて、逆に動脈硬化の犯人、成人病の素として、悪玉扱いされ、追放のターゲットにされています。
 いっそのこと、年に一度くらい、空襲警報でも発令して、全国民にパニックを起こさせ、火事場のバカ力を出させたら、全員のコレステロールが消費されて、成人病が減るのではないでしょうかね。

                               

 
閉じる