隠居のうんちく



 
                         ヘンな宗教――日本神道

                               

 古来、菅原道真と平将門と崇徳上皇が、三大崇り神として祀られてきました。
 菅原道真は「天満宮(天神様)」、平将門は「御霊神社」、崇徳上皇は「白峯神社」の祭神として、永く人々の信仰を集めてきました。
 ひと時は最高の地位に君臨した貴人が、理不尽な目に遭って万こくの恨みを抱いて死ぬと、強力な神と化して仇なした相手を滅ぼしました。それは落雷とか流行り病とか旱とか水害とかといった形で現われます。
 時の権力者たちは、なんとかしてその怨霊を鎮め、自分たちや臣民たちへの崇りを免れようとして、立派な神社を建て、ひたすら礼拝する。
 一方、民草たちは、それだけ強力な霊力を持つ神ならば、手厚く祀って祈れば、逆に強力に守護し援助してもくれる筈だ、と期待する。
 怨霊信仰には、そんな論理が働いているのでしょう。
 立花隆氏の説によれば、法隆寺は蘇我氏によって皆殺しにされた聖徳太子の子山背大兄皇子の一族の怨霊を封じ込めるために建立されたのだそうです。藤沢市の「白旗神社」は源義経の怨霊を祀っているとのことです。(鎌倉の白旗神社は頼朝を祀っているらしく、同じ白旗神社でも、けっこうややこしそうです。藤沢の白旗神社も、初めの祭神は別の神だったのが、あとで乗っ取られたのか合祀されたのか、いろいろややこしい。)
 そういう意味では、靖国神社も、私の目から見ると、どうも怨霊信仰みたいに見えて仕方が無い。
 あそこに祀られている「神様」たちは、まさに「怨霊」になる資格充分な方たちばかりではありませんか。
 そして、それを祀る側の態度も、善悪のけじめもなく、十把一からげに放り込んで、ただもう「祟らないで下さいね」と言わんばかりに拝んでいる。
 その意味では、あれはまったく「日本神道的」なのですよねー。
 しかし、悪魔を力ずくでねじ伏せるエクソシストが活躍し、ドラキュラの心臓には杭をぶち込んで息の根を止める精神構造を持つ外国の人々に、日本的怨霊信仰が理解できるとはとても思えませんね。
 それこそ、日本人は悪魔やドラキュラにまで立派な神社を建てて、お賽銭をあげかねませんからね。
 ご存知のように、例えばキリスト教には、イエス様という「教祖」がおられ、愛の宗教と呼ばれるような「教義」があり、それを書き記したバイブルという「教典」があり、それを世に広めるためのカソリックとかプロテスタントとかいった「教団」があります。
 仏教にもお釈迦さまがおられ、慈悲の教義があり、お経という教典があり、真言宗とか浄土宗とかいった教団があります。
 一般に、宗教というものの指標として、四つの要素が考えられています。
 それが「教祖」「教義」「教典」「教団」なのです。
 ところが、その四大指標が四つとも無い宗教があります。
 それは「日本神道」です。
 ここではっきりさせておかなければならないことがあります。
「神道系の新興宗教」と「日本神道」とは区別して考えなければならない、ということです。
 世の新興宗教の多くは「神道系」と「仏教系」と「キリスト教系」とに分類出来ます。
 でも、「仏教系の新興宗教」と「仏教」とが違うように、「神道系の新興宗教」と「神道」とは違います。
 思えば、太平洋戦争時代の「日本は神国なり」とか「天皇は現人神」とかいった、いわゆる「国家神道」は、あれは平田篤胤あたりによって創始された「神道系の新興宗教」だったのですね。(天皇家は古来仏教の真言宗の最大の檀家であり続けたと、この前のうずミニでも触れました。)
 さて、そこで、本来の「日本神道」ですが、そこには、神様はめたらやったら多いけれど、教祖というべき特定人物は見当たらない。教義や教典も「古事記」や「日本書紀」は、あれは伝説と歴史とがごちゃまぜになったようなものであって、神話は教典ではないし、そこに例えば聖書やお経にあるような意味での「教え」が含まれているとも言いかねる。日本神道の神社は日本国中にあまたありましたし、今もありますが、それらはそれぞれてんでんばらばらで、統一された繋がりとか、組織とかいった教団的なものは、実は明治政府によって神仏分離令が出されて以来、初めて作られたのだそうです。つまり中央集権国家体制の構築の一環として、神社も中央集権化させられたわけですね。それがまた、中央集権イデオロギーの思想的バックボーンとしても利用されたのです。でも、それは前述のように、日本神道の新興宗教化でもあったのですね。
 日本神道はよく「多神教」だと言われますが、正確にはむしろ「汎神教」だというべきなのだそうです。
 神様が「多い」のではなくて、なにからなにまで神様になってしまうのです。偉い人が死ねば神様になるし(乃木神社は乃木大将が没後、神として祀られています。)、草の先に露が宿ると、その露が神になったりします。犬神とか神木とか水神とか山神とか、いろいろな言葉があることからも、その一端が偲ばれますね。
 何から何まで神になる、ということは、言い換えれば善き存在ばかりが神になるとは限らない、ということです。
 日本神道の特徴の一つは、神の内容が「尊」「善」「功」だけでなく、「悪しきもの」「奇しきもの」も含まれるところにあるのだそうです。
 風変わりなもの、良かれ悪しかれ強烈なもの――そこに神が生まれるのです。
 恐らく、日本独特の「怨霊信仰」の根っこも、そこから発しているのではないでしょうか。

                               

 
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