隠居のうんちく



 
                         南島伝来のイモ食文化の生き残り

                               

 今から二千五百年前に弥生人が渡来するまでは、日本列島には縄文人が住んでいたわけですが、彼らも二万五千年ほど前に他所からやって来たのです。
 何処からやって来たかといえば、色々のルーツがあったようですが、その一つに、南洋の島々から、というルーツがあります。
 北中国(黄河流域)は麦食文化圏、南中国(揚子江流域)から東南アジアにかけては米食文化圏……それに対して、南国の島々はイモ食文化圏です。
 そこから日本列島へやって来た縄文人の祖先の一派は、イモ食文化を伴って来ました。
 しかし、熱帯の島々と日本列島とでは植物の生育環境が違います。
 彼らがたずさえて来たイモたちの多くは新しい環境に適応出来ずに絶えてしまいました。
 しかし、そのうちには、辛うじて生き永らえたものもありました。
 そんな南島イモ文化の痕跡が現在私たちの身の周りに二つあります。
 南の島々の食用のイモの代表は、タロイモとヤムイモです。
 そのうち、ヤムイモの仲間の生き残りが「ヤマイモ」です。そして、タロイモの仲間のそれが「サトイモ」なのです。
 わが国では、中秋の名月を「イモ名月」と呼んでサトイモを供える習慣がありますが、あれは、旧暦八月十五夜が、南島由来のイモ食文化の「収穫祭」だったことの名残だ、という説があるようです。旧暦一月元旦を「米正月」と呼ぶのに対して、八月十五夜は「イモ正月」とも呼ばれます。それはおそらく、弥生時代の米食文化の収穫祭に対する、縄文時代のイモ食文化の収穫祭の古いが永い記憶の残存なのだろう、という説です。
 過日、隠居はこの欄に「十三夜」という短文を記しました。
 その中で私は、日本古来のお月見は旧暦十月十三夜で、旧暦九月十五夜は中国から渡来した新しい風習だ、と書きました。
 その記述とこの文とは矛盾するじゃないか、とクレームが来そうです。
 そこで隠居は考えました。きっと旧八月十五夜の「イモ名月」がいちばん古い習慣で、それが米文化の普及によって、旧十月十三夜の「十三夜」に取って替わられて、十五夜は一旦廃れたが、それがまた、中国文化の影響で再移入され、まだわずかに残存していたイモ文化の記憶と結びついて「十五夜」として復活したのではあるまいか。
 いかがでしょうか、 このコジツケは?
 けっこうまことしやなのではないでしょうか。え? ダメ?
 今の日本では、イモといえば、ヤマイモやサトイモよりも、ジャガイモやサツマイモのほうが幅を利かせています。
 奇しくも、ジャガイモもサツマイモも共にアメリカ大陸の原産で(ジャガイモは南米、サツマイモは中米)、したがって、コロンブスのアメリカ大陸の発見までは、西洋にも東洋にも全く知られていませんでした。
 日本には、サツマイモは江戸時代に、そしてジャガイモは明治時代になってから普及した新参者なので、縄文時代のイモ文化のルーツとは残念ながら関わりがありません。

                               

 
閉じる