隠居のうんちく



 
                         古代の喜び組の運命

                               

 世界三大美女の一人、小野の小町についての考察をひとつ。
 ご存知のように、彼女は九世紀、平安初期の伝説的美女で和歌の名手として知られていますが、どうやら、彼女は個人というより、当時の或るグループ(の運命)を表す集合名詞だったのかも知れないのです。
 現に、彼女の出身地として、秋田県湯沢町小野が、町おこしに彼女の名を活用しているようですが、他にも福島県小野町、茨城県新冶郡、京都市山科区その他、諸説あり、古今和歌集の歌人目録には「出羽郡司娘」としか記されていないそうです。
 いずれにせよ、彼女のイメージには、当時は僻地と思われていた東北地方の、或る女性群の存在が反映していそうです。
 なぜ、古代のそれもまだ平安初期の、京の都に、東北の僻地の女性たちの影がそんなに色濃く漂っているのか?
 昨今、北朝鮮の公式イベントに、「喜び組」と呼ばれる大量の美女群が現れて、人々の目を奪い、会場の雰囲気を盛り上げています。あれはいったい何処から湧き出して来るのでしょう?
 勿論あれは国家権力によって、北朝鮮全土から徴発されて来た美女たちでしょう。
 どうやら、古代の日本でも、それと同じようなことが行われていたらしいのです。
 それは「采女制度」と呼ばれていました。これも北朝鮮同様、全国土津々浦々(つまり当時の国家権力の及ぶ範囲)から、美女を選りすぐって徴発し、京へかき集めたのです。
 彼女らの仕事は舞姫でした。当時の国家的イベントには美女の群舞が付き物だったのも、これまた今の北朝鮮と同じで、おそらくそれと共に、宮廷の支配階級の男どもの漁色の対象としても機能していたのでしょう。
 ところで、今も昔も、美女には耐用期限というものがあります。そして、采女は、いわば国家公務員として毎年新たに大量に補給されます。
 すると、耐用期限の切れた元美女たちは、どうなるか?
 彼女たちは当然、ごっそりお払い箱になります。
 僻地から徴発された美女たちは、クビになったらどうするか。
 当然元の僻地に戻らなければなりません。
 ところが、当時の国家権力はそんなアフターケアまではしてくれなかったらしい。
 小野の小町よりは、もうちょっと前のことになりますが、古代日本には「防人」という制度がありました。ご存知のように、これも国家権力によって全国津々浦々から屈強な壮丁を徴発して、西日本の沿岸の防衛任務につけたわけですが、彼らも勤務年限が過ぎると当然故郷へ帰らねばならない。
 ところが、その帰りの旅費は自分持ちだった。彼らの多くは東国の地の果てから遥々連れられて来た連中です。行きはよいよい帰りはこわい。当時は全国に通用する貨幣などもまだポピュラーになっていなかったし、当時の生産力では庶民は自分たちが食べるだけの食料がせいいっぱいで、旅人に分けたり売ったりするだけの余裕はなかった。西日本の海岸からみちのくの果てまで帰るのは、当時は大旅行でした。
 防人の任務を終えて故郷へ帰る途中で飢え死にしたり、病死したりする男どもが年々続出して、当時の大きな社会問題になっていたようです。
 屈強な男どもでさえ、そんなていたらくだったのだから、故郷に帰るか弱い元美女たちの運命は、いかがだったことか。
「花の香は移り」にける、小野の小町たちはどうしたか?
 現役時代はそれなりにちやほやされて、いい目も見たかもしれないが、齢とって容色の衰えた彼女たちは、采女の仕事も失い、やがて京での暮らしも行き詰まったら、どうやって遠い故郷へ帰って行ったのでしょうね。
 おそらく、道々春を鬻ぎつつ一椀の糧を恵んでもらい、それも不可能になったら、乞食になって故郷へ錦ならぬボロを引きずりながら、息も絶え絶えになって、やっとたどり着く、ということが、多かったのではないでしょうか。
 或いは、道中非業の死を遂げた元美女も多かったことでしょう。
 そんな、多くの元美女たちのうめき声が、伝説の中の、乞食になって流浪する小町や、野ざらしのされこうべの卒塔婆小町などの形象となって、今なおわれわれに永遠の怨みを訴えかけているのではないでしょうか。

                               

 
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