隠居のうんちく



 
                         山のあなたの……

                               

 私は永い間、とんだ思いちがいをしていたようです。例えば極寒の地を生活圏とするイヌイット(「エスキモー」は差別語だそうですね)や、カラハリ砂漠などに暮らすコイ・コインやサン・クア(「ブッシュマン」や「ホッテントット」も差別語だそうです)たちは、豊かな温暖の地から暴力的に追い出された悲劇的な平和主義者の末裔なのだと、私は決め込んでいました。そんな思いこみには、アダムとイブの楽園追放神話からの無意識の影響があったのかも知れません。人類には最初にまず楽園があり、そこから追い出されて苦難の土地へと旅立った、といった先入観念が。ところがどうやら真相はそれとは逆だったらしいという説を、最近私は知りました。
 ご存じのように、人類の遠い遠い最初の祖先は、東アフリカのオルドバイ渓谷に生まれ、そこから数百万年をかけて、野を越え、山を越え、川を、海を、砂漠を、氷原を越えて、ついに地球上のいたる所に進出して今に至っているわけですが、そのように人類を突き動かした要因は「強者による弱者の追い出し」だったのではないらしい。
 人間が幸福だと感じるのは、幸福「になった」時であって、幸福「である」時ではないらしいのです。脳の生理学的研究によると、ヒトが幸福感を覚えるのは「ドーパミン」という物質が脳に分泌されることによって、ですが、そのドーパミンは「新しい」成功の際に分泌され、その成功が「持続」していると分泌しなくなってしまうのだそうです。
 つまり、人を幸福にするのは、幸福への「変化」なのであって、幸福の「持続」ではない、というわけです。人は、今続いている幸福には幸福感を持てず、すぐに新しい幸福を求め始める。そして、それはヒトの遺伝子が、そのようにドーパミンの分泌をコントロールするように設計されているせいです。
 つまり、人間は、どんなに豊かな楽園に居ても、しばらく幸せに暮らしているうちに次第に、「山のあなたの空遠く」棲むという幸いに、憧れてそっちへ行ってみたくなってしまう宿命を持っている、ということです。たとえその「山のあなた」が極地であろうが、砂漠であろうが。
 これは要するに、今まで私が氷の世界や砂漠へと追いやられたのだと思っていた人々は、実は、身のまわりの幸せにあきたらず、新しい幸せを求めて旅立った冒険者たちの後裔だったということでしょう。そして彼らをそのように駆り立てたのは、そのようにドーパミンを操るヒトの遺伝子だ、というわけです。
 どうやらそんな傾向はヒト以外の動物の遺伝子にはあまり見かけられない様です。勿論、極地や砂漠にも、それなりに動物は棲息するが、彼らは遺伝子そのものを変化させてそんな環境に適応している新種乃至は亜種です。現生人類(ホモ・サピエンス)の様に一属一種で、つまり同一の遺伝子のまま、地球上のありとあらゆる環境へと進出した動物は、ほかにはいないでしょう。
 森林が猿を生み出した。森林を離れた猿はいない。類人猿の仲間もそうです。チンパンジーもゴリラもオランウータンも、彼らの祖先も、ついに森を離れなかった。類人猿のうち、ただ一種、人類の遠い祖先、「猿人(アウストラアピテクス)」だけが、森から草原へと進出しました。
 もしかしたら、最初の猿人の最初の一人が、居心地の良い森の中から、ある日広い草原を眺めて、「あのあなたに、新しい幸せが棲むのでは……」と思い始めたのが、まさに人類発祥のきっかけだったのではあるまいか。
 ところで、人類史についての解説書のあれこれをひもとくと、大抵、人類の祖先はチンパンジーやゴリラやオランウータンの祖先に森から追い出されて渋々草原へと進出したのだ、と書かれています。
 してみると、私の意見は、とんだ珍説なのでしょうか? みなさんは、どう思われますか?
 尤も、そんなことはどっちでもいい、と言われれば、確かにその通りですがね。

                               

 
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