隠居のうんちく



 
                         十二単

                               

 だしぬけに十二単です。脈絡もなく十二単です。これが隠居の通弊です。
 なにはともあれ十二単ですが、隠居はこれを平安時代のフォーマルウェアだと思っていました。
 ところが、どうやらこれは、普段着だったらしいのです。それも、宮中の女官たちが休暇で宿下がりをした折の、自宅でのくつろぎ着だったようです。
 同じ普段着でも、宮中では、私室でも十二単の上に「裳」というものを着けて居なければなりませんでした。
 では、当時のフォーマルウェアとはどういうものか、といえば、それは「十二単」と「裳」の他に「唐衣」を着けなければならないのでした。
 いやいや、まだまだ、そのうえに宮中ではいちばんの正装がありました。つまり、この「十二単」に「裳」と「唐衣」を着けた上に「打衣」と「表着」を着け、袴を「張袴」というものに穿きかえなければならないのでした。
 それと比べれば、「十二単」はかなりの軽装で、つまり、これは平安時代の「セレブなカジュアル」といったおもむきのものだったのでしょう。
 ところで、文献上に「十二単」という単語が初めて現われるのは、平家物語の壇ノ浦での建礼門院の入水のシーンだそうです。
 隠居は、このシーンは建礼門院がきちんとしたフォーマルウェアに身を包み、しずしずと海中に身を沈めたのだと思って感動していたのですが、してみると、建礼門院は、里帰りの折りと同じ普段着で船縁からドブンと飛び込んだわけで、これでは村娘の身投げと同じじゃないか、と興ざめな思いが致しました。
 文献では平家物語が初出でも「十二単」はもちろんもっとずっと前からあったわけですが、それは正式には「重ね袿(うちぎ)」と呼ばれていました。
 それは、早い話が重ね着ルックです。衣の重ね着です。十二枚とは限らず、季節や気候によって適宜調節したようです。当時は綿入れのドテラもダウンジャケットも無かったから、寒かったらやたら重ね着をするしかなかった。つまり「乞食の重ね着」と原理は同じですね。
 おまけに、平安時代には、どうやら夜寝る時の掛け布団というものがなかったらしい。貴族の子女たちは、夜は十二単をそっくり脱いで、それを身体の上に掛け、畳の上にじかに寝たらしいのです。
 当時は畳は、座布団兼ベッドだったので(それ以外は板の間)、それはいいのですが、十二単が掛け布団を兼ねていた、というのは、ショッキングな知見でした。
 十二単とは、平安時代の「セレブなカジュアル」であると同時に「歩く掛け布団」でもあったのですね。
 余分な付記になりますが、隠居はかねがね、平安貴族の男たちは、十二単の女性のもとへ夜な夜な通って行って、毎回十二枚脱がせるのもたいへんだろうな、と同情していたのですが。これで、そんな同情は無用だ、ということが判りました。

                               

 
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