隠居のうんちく



 
                         通念と事実

                               

 自分が常識だと永年の間思い込んでいた事が、間違いだったと知らされた瞬間は、たとえそれがどうでも良いような些細な事でも、けっこうショックですね。尤もそれは私だけが誤解していた、私だけの「通念」かも知れないのですが。

  スパゲッティ
 私が若い頃には、スパゲッティといえば、「ナポリタン」しか無かったような気がします。その後、ちょっと遅れて「ミートソース」が登場し、私はこっちの方が好きでした。
 ところが、つい最近知ったのですが、「スパゲッティ・ナポリタン」という料理は、日本で発明されたもので、本場イタリアにはないのだそうですね。
 そして、「スパゲッティ・ミートソース」もまた、イタリアには無い料理で、それはアメリカで発明されたアメリカ料理なんだ、と聞かされた時の私のショックをお判りになるでしょうか?
 私にとって、スパゲッティとは、この二つしかなかったのですから。その二つとも、本場のスパゲッティではない、としたら、いったい私は何を食べていたのだ!
 余談になりますが、私は「トマトケチャップ」と「トマトソース」とは違うんだ、ということも、最近初めて知りました。
 本場でのスパゲッティの基本は「ペペロンチーノ」で、日本の蕎麦に例えると「もりそば」にあたる、と知ったのも最近ですが、ところで俄然、スパゲッティが一世を風靡するようになったのは、中世のある時「トマトソース」が発明されてスパゲッティに掛けられるようになってからなのだそうです。
 ところが、スパゲッティが日本に入って来た時には、その肝心のトマトソースの作り方が判らなかったので、似たようなもんだから、というのでエイッとトマトケチャップを掛けてしまったのが「ナポリタン」なのだそうです。
 同じように、アメリカにスパゲッティが入って行ったとき、ステーキばかり食べているアメリカ人の好みに合わせて、上に挽肉を載せたのが「ミートソース」というわけです。
 ですから、本場イタリアのスパゲッティには、「ナポリタン」も「ミートソース」もないのだそうですね。(尤も、観光客相手のお店には、最近はあるかも、ね。)

  縄文住居
 話は変わりますが、皆さんも私同様、学校の歴史の授業で「縄文時代」を学んだ折、当時の住居は竪穴式で、地面に穴を掘って、その上にテントみたいに三角形の屋根を付け、その中で頭がつかえないようにしゃがんで暮し、従って住居の真ん中の炉の周りにばかり座り込んでいた、と、教えられていたと思います。
 静岡県の登呂遺跡も、そういったコンセプトで縄文住居の復元模型も作られているわけですが、つまり縦穴の上にすぐ藁葺き屋根だけが載っているというスタイルですね。
 ところが、最新の考古学的発見によれば、どうやら縄文時代の住居にも壁というものがあったらしい、と判ったとのことです。しかし、壁は薄いし腐りやすいので、今までの発掘では、縦穴と屋根の痕跡しか発見されなかったので、従って復元の際にも、穴と屋根しかない、テントみたいな住居になってしまいました。そして、私たちも、縄文時代の人たちは家の中ではしゃがんで暮していた、と堅く信じて来ました。
 ところが、この頃、縄文遺跡の発掘で、穴の周囲に壁の痕跡が続々発見されだしたらしいのです。ですから、どうやら当時も、縦穴の上には今の住まいと同じように壁があり、その上に屋根が載っていて、人々は家の中でもしゃがんだり這ったりせずにちゃんと立って歩き回り、真ん中にばかり集まっていたりせずに、壁に寄っかかって物思いに耽っていたりした筈だ、ということが判りだしたようです。
 つまり、私たちが登呂遺跡などでイメージに焼き付けられた、縄文時代のあの地面に直接置かれたトンガリ帽子の三角屋根は、とんだ間違いだったわけですね。
(考えてみると、家に壁があるかないか、ということは、文化的にもたいへん重要な差かも知れませんね。私だって、我家に壁というものがなかったら、私の思索も詩情も、まるっきり今とは違っていたでしょうね。)

  武士の魂
 またまた話は変わりますが、最近「ラストサムライ」とか「たそがれ清兵衛」とか「秘剣鷹の爪」とか、剣豪ブームっぽくなっていて、武士と刀とがクローズアップされ「刀は武士の魂」といった通念が定着し、私も勿論子供の頃からそう思っていました。
 ところが、我が国に武士というものが生まれてから一一〇〇年余りになりますが、刀というものが武士のシンボルになったのは、そのうち、たかだか後半の三〇〇年程度に過ぎないのだそうです。
 豊臣秀吉が「刀刈り」を行って、武士以外の者が刀を持つのを禁止しましたが、それによって、初めて刀が武士のシンボルになったのです。
 それでは、それまでの八〇〇年間の武士のシンボルは何だったのか、というと、それは「弓矢と馬」だったのだそうです。
 軍事史的にいいますと、昔の軍人は「弓射(飛道具)騎兵」「打物(衝撃具)騎兵」「弓射歩兵」「打物歩兵」の四種類に分けられますが、我が国の武士が成立した西暦九〇〇年以来、我が国ではそのうち「弓射騎兵」と「打物歩兵」の二グループで「武士団」が形成されていたのです。その間の事情は、平家物語とか源平盛衰記などをひもとけば、誰にでもうなずけることですね。(それと比較すると、中世ヨーロッパでは「打物騎兵(騎士)」と「弓射歩兵(雇兵)」の組み合わせでした。)
 日本中世の武士団の場合には、主人は「弓射騎兵」で、郎党が「打物歩兵」でしたから、いきおい、「武士のシンボル」は「弓矢と馬」、ということになったわけです。

 こうして、またまた私の永年にわたる通念は、儚くも潰え去ったのでした。ここには取り敢えず三つの例だけ挙げてみましたが、このようにこの歳になってから、やっと訂正することが出来た誤解も多いが、きっとこれからもいくらでも見つかることでしょう。そう思うと楽しみなような、空恐ろしいような……。

                               

 
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