隠居のうんちく



 
                         ネコメシの復権を

                               

 このところ、やけに復権づいているかのような隠居ですが、この度はぶっかけ飯の復権に挑みます。
 隠居の幼少時代には、ご飯にみそ汁をぶっかけてかっこんだりしますと、犬の餌だ、と親が言って怒りました。ペットの擬人化が今日のように進行していなかった当時は、ドッグフードなどというものは何処にもなく、残り物のご飯に残り物のみそ汁をぶっかけたものが飼い犬の常食でした。当時は飼い猫の餌はご飯に削り節を掛けたものがオーソドックスだったようで、犬よりもやや待遇がよかった。それが、いつのまにかぶっかけ飯をネコメシと呼ぶようになっているのはどうしてでしょうか。
 ともあれ、ご飯にみそ汁をぶっかけたものは、当時も今も、畜生の餌であって、万物の霊長がそれを食べるのは、たいへんお行儀がよくないことになっています。
 ところが、どうやら我が国でご飯に汁をぶっかけて食べないようになったのは、ほんの明治維新以後のことらしいのです。
 少なくとも戦国時代には「武家にては必ず飯わんに汁をかけ候」と「宋五大草子」という書にある、とのことです。当時は常食は「姫飯(ヒメイイ)」と呼ばれて必ずご飯に汁をぶっかけて食べていたようです。他に「強飯(コワメシ)」というものがあって、これは飯椀から「箸にてすくひ、左の手の上に移して、手にてくふべし」とあって、こちらは箸から直接口に入れてはならなかった。従ってこれに汁をぶっかけたら、惨憺たるものになりますから、掛けなかったようだが、こちらは常食ではなく、一種の儀式としての会食のマナーだったようです。
 テレビの時代劇などでは「一膳飯や」とか「一杯飲み屋」とかがしょっちゅう出てきて、江戸時代には全国津々浦々にレストランやバーがあったような錯覚を与えられますが、実は関西には宴会用の料理屋はあっても、一杯飲み屋はなかったのだそうです。一杯飲み屋は、江戸という巨大な「単身赴任都市」特有の現象であって、参勤交代で出てくる武士たちも、町人職人たちも、圧倒的に独身者あるいは単身赴任者が多かったので、関西の人々のように帰宅すれば自宅に食事や晩酌が待っている、というわけにはいかなかった。そこで手軽に一人で呑んだり食べたり出来る施設が必要だし、また採算もとれた、というわけでしょう。
 そもそも、酒というものは、当時は冠婚葬祭……つまりハレの時に、在のもの、あるいは講中、座といった、なにかしらのコンミューンの結束の儀式として集団で酌み交わされたものであって、独りで店の一隅で手酌でやるような性格のものではありませんでした。
 それにひきかえ、江戸という女旱、女砂漠の特殊空間が生み出した、特殊飲酒システムが「居酒屋」なのです。
 そんなわけで、宴会用の料理屋以外の「一膳飯や」といった軽便食堂も、江戸と、それから「街道筋」の宿場とかいった、旅人相手のそれしかなかった。
 そうして、そういう「一膳飯や」での飯の食べ方は、「どんぶり飯」と「汁椀」とを注文し、へいおまちどうさま、と出された汁碗を、やおらどんぶり飯の上にザバとぶっかけて、そのまま口元へもって行って、箸でサラサラと掻き込み、どんぶりと箸をトンと飯台の上に戻して、ねえさんツリはいらねえよ、と肩で暖簾を掻き分けて表へ出る、といったコンセプトなのでした。これは木枯らし紋次郎でも森の石松でも沓掛時次郎でも潮来の伊太郎でも、総ての「旅人」に共通のスタイルなのでした。
 江戸でも、最も流行った飯屋の営業形態は、アサリとかトウフとかキノコとかワカメとかアブラゲとか、何種類かのアツアツの汁を常に用意してあって、客は思い思いに好みの汁を注文し、それを飯にぶっかけて食べる、という、今の深川丼ふうのスタイルのいわば「アラカルトぶっかけ」飯屋なのでした。
 ところで、隠居がどうしてこんなにぶっかけ飯の復権に熱意を傾けているかといいますと、実はわたくし、こよなくこのネコメシ、イヌメシを好むものでありまして、特にイッパイやった仕上げにサラサラっとかっこむ時の醍醐味ときたら……。

                               

 
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