隠居のうんちく



 
                         ものぐさ太郎のルーツ――信州人は海洋人

                               

      (一)
 世上、過労死などが問題になりだしてから、もう久しいし、高度成長時代以来、日本人の働き中毒は世界的話題のようです。(尤も私は一度も言われたことがありませんが……)。
 働き中毒になったり、過労死したりするのは、早い話が、働くことが美徳だと思われているからなので、仮に働かないことが美徳だと思われていたら、いくら収入が増えたって、まさか死んでしまうほど働き過ぎることはあんまりないでしょう。
「勤労は美徳だ」という考えは、あんまり当たり前の常識なので、なんだか人類発祥以来ずっと人々にそう思われてきたような気がしてきますが、実はけっこう最近に初めて生まれた観念らしいのですね。
 欧米では、それが初めて定着したのは、マルチン・ルーテルの例の宗教改革以来、それもピューリタン革命以後なのだそうです。ご存じのようにアメリカへの最初の移民はピューリタンたちでしたから、アメリカ合衆国のバックボーンが「勤労は美徳」観念なのは当然だけれど、でもそれ以前の、それ以外の国では、必ずしも勤労が美徳だと思われていたとは限らない。
 早い話が「古代」では、勤労は「奴隷」のやる卑しい行為だったし、「中世」でも働くのは虫けらのような「農奴」たちだけでした。奴隷や農奴は殆ど人間だと思われていなかったから、ちゃんとした本当の人間は、働かない存在だったのです。
 だいたい、欧米思想のバックボーンをなすキリスト教の旧約聖書の創世記では、いちばん最初の人間であるアダムとイブは、エデンの園で毎日働かないで暮らしていましたが、神様の言いつけを破ったので楽園を追放され、それ以来人間は生きるために働かなければならなくなりました。
 つまりキリスト教では「勤労」は「罰」なのです。
 そんな事情は、日本でも似たようなもので、飛鳥時代だって奈良時代だって平安時代だって、働くのは「シモジモの者」のやることでした。江戸時代のような戦争のない時代には、全人口の十パーセントの武士たちは、一部の行政や警備の担当者以外は、それぞれ名目だけの職名を与えられて、無為徒食しながら、残りの九十パーセントの働く「百姓」(武士、公家、僧侶以外の総ての職業)を人間扱いせずに切り捨てご免にしていたのはご存じの通りです。
 そんな江戸時代の日本で、「勤労は美徳」という思想を打ち出して世に認めさせたのが、かの二宮尊徳だったらしいのです。私が子供の頃の小学校の校庭の隅には、必ず薪を背負って歩きながら本を読んでいる野良着のお兄さんの銅像があって、音楽の時間に「草刈り縄綯い草鞋を作り……手本は二宮金次郎」と歌わせられたものですが、あれが二宮尊徳の子供時代のことだったのですね。
 当時は、なんでこんな人がこんなに銅像まで造られるような存在なのか、子供心にはさっぱり判りませんでしたが、今思えば、あの人がそれまでの日本の勤労についての思想を百八十度転換させた思想的革新者だったのですね。それはいわば日本での一種のピューリタン革命みたいなものだったのでしょう。
 だとしたら、昨今の我が国の「働き中毒」や「過労死」の遠因は二宮金次郎さんにあった、とも言えなくもないですね。
 明治維新以後の日本の「富国強兵」政策のためには、まず日本人の「勤労」に対する価値観をそれ以前の常識から変えて、勤労は美徳だ、と思わせることが国策として必要だったのですね。そこで小学校にあの銅像、ということになったわけだ、と私が腑に落ちたのは、実はごく最近になってからでした。まさに遅刻耳の極致です。

 やたらと前置きが長くなってしまいました。
 要するに私が言いたかったのは、なぜ「ものぐさ太郎」のようなお伽噺が生まれたのか、働かない人間がどうしてヒーローになっているのか、ということだったのです。
 つまり、働く人間は偉い、働かない人間は偉くない、という常識は、意外に最近の思想であり、「ものぐさ太郎」の話が生まれた頃には、そんな常識は全然なく、むしろ働かないことの方が美徳だったのかも知れない、ということです。
 なにしろ、「ものぐさ太郎」は神様として祀られ、崇められているのです。

      (二)
 信州の松本から安曇にかけては、ものぐさ太郎の伝説が多く伝えられており、その辺りでは、ものぐさ太郎は「オタガの大明神」として祀られているのです。
「オタガ」とは「ホタカ」が訛ったもので、「ホタカ」は「穂高」つまり日本アルプスの槍、穂高の、その穂高です。
「穂高神社」とは古代の海洋民族の安曇族の祖神を祀る神社です。その祖神は海神です。どうやら「ものぐさ太郎」は海洋民族の安曇族に縁が深いようなのです。
 確かに、信州には「安曇野」という地名がありますね。
 しかし、なんで信州に海洋民族が居るんだ?
 信州には海なんか、ないじゃないか。
 ……とお嘆きの方に、ちょっと申し上げたい。
 伊豆半島の東の付け根に「熱海」という観光地があって、お宮の松なんかがありますね。あの地名「アタミ」は「安曇」と語源が同じなのだそうです。
 また、もう少し西、三河湾の入り口に「渥美半島」がありますが、その「アツミ」もまた「安曇」と語源が同じ。
 もっと西、大阪府(摂津)にも、兵庫県(播磨)にも、福岡県(筑前宗像郡)にも、「アズミ」または「アズミ郷」という地名があります。
 上古、海洋民族の安曇族の本拠は北九州博多湾の「志賀島」でした。例の古代中国の皇帝から倭の国王に贈られたという「金印」が出土した島ですね。
 どうやら安曇族は、その本拠から、東へ東へと、なにしろ海洋民族ですから海伝いに、瀬戸内海から太平洋の沿岸へと移動し、その先々に定住しては、その地に「アズミ」「アツミ」「アタミ」といった地名を残したようです。
 また、その仲間のうちには、北回りで日本海沿いに東行した一群もありました。
 判った、だからそういう地名はみんな海岸線にあるんだな。
 ……しかし、それでは「安曇野」はどうしてくれる。それのある長野県は、海岸が全くない県の一つじゃないか。
 ……と再びお嘆きのあなたに、申し上げたい。
 水があるのは海だけじゃないよ、と。
 そうです、「河」というものがあるじゃないですか。
 海洋民族は、海だけではなく、水さえあれば何処へだって行けるのです。
 信州は、太平洋岸からは「木曽川」「天竜川」「大井川」その他、そして日本海側からも「信濃川」「姫川」その他、まさに信州に源流を持つ河を沢山擁しています。
 安曇族は、それらの河を伝わって、太平洋側からも日本海側からも、続々と信州へと進出したのです。いわば信州は海洋民族の一大植民地だったのです。

      (三)
 日本神話のうちで名高い出雲の国譲り神話には、こんな件りがありますね。
 天孫が降臨して、出雲の国に国を譲れと求めると、出雲の神の「オオクニヌシ」は素直に応じて国を譲ったが、その身内の「タケミナカタ」は不承知で、抵抗して負けて、逃げ出したが、天孫の部下の「タケミカズチ」が信州まで追いかけて行って、ついに殺してしまった、というのです。
 どうやら神話の世界でも、信州は出雲の国の植民地だったようですね。
 ところでその「出雲の国」の「イズモ」もまた「安曇」と同じ語源から生まれたらしいのです。
 というわけで、どうやら出雲の国譲り神話は、海洋民族の安曇族が、騎馬遊牧民族だったかも知れない天孫族、つまり天皇系一族に攻め滅ぼされた史実を反映している、と考えることも出来るわけです。
 そしてその際、本国の出雲と共に、植民地の信州も、天皇一族に支配されることになったのでしょう。

      (四)
 ところで、ここでちょっと話を戻させてもらいますが、「働かない」ということには、(一)で述べたことの他に、もう一つの側面があります。
 それは「サボタージュ」という機能です。つまり「働け」と命じる者への「抵抗」としての機能です。
 ところで、我らの「ものぐさ太郎」は、もしかしたら出雲の国譲りの際、抵抗して信州まで逃げて来て殺された出雲の王子タケミナカタの一族の者だったかも知れない。或いは遺児だったかも知れない。
 一族は戦いに敗れ、屈服したが、しかし、だからといって侵略者に唯々諾々として協力する気にはなれない。
 戦うことは出来ないが、協力もしたくない。
 その場合、どうするか。
「ものぐさ太郎」になります。
 つまり、「ものぐさ太郎」は、暴力には屈したが心までは売り渡さない、いわばマハトマ・ガンジーふうの、抵抗運動のシンボルだったのではないでしょうか。
 彼が寝そべったまま、貰った食べ物まで手を伸ばすのが面倒だから食べない、などというのは、もしかしたらそれこそガンジーふうのハンガーストライキの創始者だったのかも知れません。
 もし、ものぐさ太郎が、余所者に滅ぼされた元の盟主の忘れ形見だったとしたら、地元の人たちが、後日彼を神として祀ったとしても、さほど不思議ではないでしょう。
 ところで、ものぐさ太郎は、それからどうなったか。
 お伽噺のなかでは、彼はひょんなことで、トントン拍子に処世に成功し、長者の娘婿となって、都に出て出世し、故郷に錦を飾ることになります。
 早い話が、これは信州の新しい支配者が、地元民のサボタージュにヘキエキして、弾圧から懐柔に転じ、政略結婚などの策略を駆使して、まつろわぬ連中を上手く手なずけ、また地元民も、むしろ権力者に取り入ることで出世する道を選ぶ事にした、という「レジスタンスの風化」の物語なのではないでしょうか。
 ああ、なんだか味気ない話になりましたね。
(ここでは、神話やお伽話に話を限りましたが、どうやらこの物語は、六世紀の初め、継体天皇の時代、九州筑紫の国の「磐井の乱」に安曇族も荷担して天皇一族と戦い、破れて東に逃げた史実に対応しているようです。
 その際、安曇族は日本海回りで、現在の糸魚川辺りから姫川を遡って安曇野に至り、一方天皇一族は太平洋回りで、静岡県の天竜川を遡り、安曇野を征服したらしいのです。)
 この稿の「ものぐさ太郎」についての考察は宮坂静生氏の「物くさ太郎幻想」(「信州の旅」N0・77)その他を参考にさせて頂きました。

                               

 
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