隠居のうんちく



 
                         誤記の定着

                               

 私の母の戸籍名は「シュ」となっています。
 実は母の両親は「シュウ」とするつもりで届けたのですが、戸籍係が書き間違えてウを抜かしてしまったのです。一度登録すると訂正には厄介な手続きが必要なので、面倒くさいことの嫌いな下町っ子の両親はそのままうっちゃっておいたらしい。
 母は常々この「本名」を、なんだか空気が漏れるみたいだと言って甚だ嫌っていました。そのことを知った結婚前の父が母への手紙に、「シュ」の代わりに「周子」と記したのが、母にはことのほか気に入ったのでしょう。母は生涯自分の名前は戸籍名ではなく「周子」で通していました。
 母の家系にはどうやら誤記の宿命が宿っているらしく、母の母も、親の付けた名前は「カノ」だったのに、戸籍名は「カメ」にされてしまい、やはり年頃の娘時代には亀は嫌だったのでしょう、これも生涯「カノ」で通していました。
 こういう個人的な誤記は、シュやカメのように当人がこの世から退場すれば、それまでなのですが、世の中には誤記のままずっと生き永らえる言葉もあるようです。
 そのよく知られている例は「OK」です。
 これは意味から言えば「all correct」の略ですから、本当は「AC」でなければならない。
 この場合は誤記した人物もはっきりしていて、アメリカの西部出身の初の大統領アンドルー・ジャクソンが、公文書にall correctのつもりでoll korrectと書いた。それが、いかにも西部っ子らしい、と却って評判になって、以後「いいよ」と言う場合に略して「オーケー」と言うのが流行り、それが未だに定着してしまっている、というわけです。
 日本にも似たような例があります。嫌われ者の「ゴキブリ」ですが、実はこれは元々は「ゴキカブリ」という名前でした。
 つまり「御器(食器)」を「カブル(囓る)」からゴキカブリです。ところが明治時代の学校の教科書にそのうちの「カ」が抜けて「ゴキブリ」と記載され、それがそのまま定着してしまったのです。この場合も誤記したのは飯島魁である、と人名まではっきりしているところが「OK」と似ていますね。これなんかはなかなかの「誤記ぶり」だ、なんて。
 ところで「櫻」という字は、実は中国では「ユスラウメ」を指す言葉なのだそうです。
 また「レモン」のことを漢字で「檸檬」と書きますが、確かに中国語では「檸」の字はレモンですが「檬」の字はマンゴーを指すのだそうです。
 ついでに、「桃」の英語「peach」の語源は「ペルシャ」(フランス語のペーシュ)ですが、それは桃の原産地はペルシャだと思われていたからだそうです。ところがその後の研究によれば、桃の原産地は中国の北西部らしく、しかし紀元前数世紀には既に桃はペルシャに伝わっていた。この場合は原産地の勘違いが名前に反映したわけですね。
 国名や地域名にも、同じような例は見られます。上古、卑弥呼の時代の我が国が中国の史書に「倭」と記されているのは、実は中国の使者に「この国の名は何というのか」と訊かれた者が、質問の趣旨が良くわからず(或いはまだ国名という概念が無かったのか)、「ここは自分の国だ」と答えたのが、「自分の国(我ヌ国)」を国名と聞き間違えられ、「倭奴国」つまり「倭」と誤記されてしまったのだ、という説があるようです。
 グレートブリテンと言えば我々は「大英帝国」と訳しますが、実はそれは明治時代の人の誤訳なんだ、とつい最近聞きました。
 古来ケルト人は、イギリス本島のスコツトランドを中心にした地域と、フランスのブルターニュ地方とに住んでいて、フランスの方を「小ブリテン(ブルターニュ)」と呼び、イギリス本島の方を「大ブリテン(グラン・ブルターニュ)」と呼んだ。そのグラン・ブルターニュが英語になって「グレート・ブリテン」になったのだから、これは「大英帝国」ではなくて、ただの「イギリス島」なんだ、というわけらしい。
 ついでながら、「ヒルビリー」と聞けば私たちは「カントリーアンドウエスタン」をイメージしますが、実はヒルビリーとは「山に住む田舎っぺ」という意味で、つまり「南部」の「山間地」の「農民」の歌を指すものだったのです。ところがそれがいつの間にか「西部」の「平原」の「カウボーイ」の歌を指すようになってしまった。
 私は、シシと言えばライオンのことだと思っていました。ところが「シシ」とは「獣の肉」のことなのだそうです。例えば「猪(イ)」の「肉(シシ)」だから「イノシシ」なのです。だから鹿の肉は「カノシシ」だし、羚羊の肉は「カモシシ」です。我々は猪の鍋を「シシナベ」と呼んでいますが、実はシシナベとは総ての獣の肉の鍋の総称なのです。すると牛の肉はギュウシシ、豚の肉はトンシシ、バノシシ、ゲイシシ、ウノシシ、ケンシシ、ソノシシ、ビョウシシ、リスシシ、モグラシシ、極めつけはジンシシですか。
 考えてみれば、世の男どもが自分の連れ合いを粗末に扱って指す「女房」という言葉は、平安時代には宮廷の女官を指す言葉でした。江戸時代の売春婦を指す「じょろう」だって平安時代には位の高い女性を指す言葉でした。
 こう考えて行くと、「誤記」とは「ミステイク」なのではなく、生物の場合と同様の一種の「進化」或いは少なくとも「突然変異」と捉えるべきではあるまいか、という気がしてきました。
 時代が変われば言葉も変わる。その変わり方の一つの形が誤記というものなのではないでしょうか。
 ちょっと意味は違いますが、例えば私が少年の時代には「自由主義者」とか「朝鮮人」とかいう言葉は蔑む言葉でした。相手を辱める為に使うことばでした。
 でも、いま私が相手を辱めようと思って「この自由主義者めッ」などと叫んだら、これはとんだ「誤用」でしょう。小説の喧嘩の場面なんかにこれを用いたとしたら、それは「誤記」でしょう。
 ですから、言葉の意味は全く変わらなくても、時代が変われば誤記になる場合もあり、意外とこの問題は奥が深いですね。

                               

 
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