隠居のうんちく



 
                         翻訳と言霊

                               

 いま私たちは、ごく当たり前な事として、外国の小説などを翻訳で易々と読んで、何の不思議とも思っていません。しかし、どうやら「翻訳」ということは、コトバの歴史の中の二大革命のうちの一つなのであって、いわば天動説が地動説に変わったくらいの大事件であったらしいのです。
 コトバの二大革命のうちの、もう一つは、言うまでもなく「文字」の発明ですが、これも、「耳」で聞く「言葉」を、「目」で見る「文字」に置き換える……つまり「聴覚」を「視覚」に「翻訳」するという大発明だった、とも言えるでしょう。
 言葉を文字に翻訳することが、発明当時は天地がひっくりかえるような大事件だったのと同じくらい、或る民族のコトバを他の民族のコトバに置き換える、ということ……つまり「翻訳」も、初めは、それまでは思いも及ばなかった、とんでもない大事件だったようです。
 何故かと言えば、当時は「コトバ」というものは、ただ何かを相手に伝える手段であるだけではなくて、ひとつひとつのコトバには霊力が備わっていて、コトバ自体がいわば神通力を持っている、と信じられていたからでしょう。
 だから、或る民族のコトバを、いくら同じ意味を持つからといっても、別の民族のコトバに置き換える、ということは、例えば、キリスト教会の中のマリア様の像を、同じようなものだからと言って観音様の像に置き換えてしまうような、とんでもないバチ当たりな仕業だと思われたのでしょう。
 そんな感じ方の名残は、いまなお私たちの周囲にも時折見られます。
 お葬式や法事の時、「お経」は、日本語に翻訳されない漢文のまま、お坊さんによって唱えられます。それは、お経の効き目は、原文のコトバの霊力……つまり「言霊」によって、初めて故人の霊に対して働くのであって、日本語に翻訳して唱えたってお経の言霊は働かないと思われているからでしょう。つまり観音様に向かってアーメンと唱えても、御利益は期待出来ないと思われるのと同じです。

 こういった「言霊」信仰は、古代ではごく普通に見られるものだったようです。
 例えば、平安時代の女性の実名は、殆ど判っていません。
 あれほど世界的に有名な「源氏物語」の作者の名前さえ、判っていないのです。「紫式部」というのは、いわばアダナです。
 彼女の父親の役職名が「式部之丞」で、源氏物語に登場する「紫之上」に因んだのか、或いは紫の衣服を好んだのか、とにかくそんな因縁から紫式部というアダナがついて、そのアダナしか後世には伝わりませんでした。
「枕の草子」の作者、清少納言も本名ではなく、アダナです。
 父親の姓が「清原」で、彼女の再婚相手の身分が「少納言」だったから、「清少納言」と呼ばれていたのです。彼女の本名も不明です。
 他の、文学史上で現在でも有名な女性歌人や日記作者たちも、軒並み、本名は不明です。
 なぜそういうことになったのか、というと、実は、当時は人の名前というものには、超自然的な力があり、誰かがその人の本名を知って、それを発音すると、そのコトバの力でその名の持ち主は相手の思うままにされてしまう、と思われていたからです。
 特に女性は、男に自分の本名を知られたら、男の意のままに操られてしまう、と思われていて、従って男に自分の本名を報せるということは、とりもなおさずその男に身を任せる事を意味しました。
 だから、女性の本名は、当時トップ・シークレットで、彼女が本当に好きな男性一人にしか報せないものだったのです。

 こういった事情は中国でも同じで……というか、そういう考え方そのものが、中国から伝わって来たのでしょうが、当時の中国では本名は「イミナ」と呼ばれ、知られるのを「忌む」ものだったようです。ですから日常生活では本名の代わりに使われるのが「アザナ」でした。例えば三国志の蜀の王「劉備玄徳」の姓は「劉」で、イミナ(本名)は「備」でアザナが「玄徳」ですから、彼のことを当時は決して劉備とは誰も呼ばなかったはずで、劉玄徳、または単に玄徳と呼んでいた筈です。
 例の孫悟空の活躍する「西遊記」の一節にこんな話があるのをご存じでしょう。妖怪の王が魔法の瓢箪を持っていて、彼が誰かの名前を呼び、相手がうっかり返事をすると、名を呼ばれた当人は瓢箪の中に吸い込まれてしまう。この話などは、人名ないしコトバに対する当時の考え方を反映しているような気がします。

 こういった、コトバの霊力への信仰、といったものは、ヨーロッパでも見られたように思えます。
 中世の時代は、ご存じのようにキリスト教の信仰がヨーロッパの全土を覆っていましたが、その聖典であるバイブルは、ご存じのように宗教改革のマルチン・ルーテルが現れるまでは、どうやら各国語に翻訳されることは無く、永らくラテン語のまま、カソリックの僧侶しか読めないものであり続けたようです。
 これも、バイブルを僧侶階級の独占物としてその権威を保とうという意図ばかりではなく、やはりラテン語をほかのコトバに置き換えると、言霊の霊力が失われるという考え方が働いたのではないでしょうか。つまり、日本の仏教のお経が漢文のまま唱えられるように。

 そう言えば、日本では古代から江戸時代……例の解体新書(ターヘル・アナトミアの翻訳)……までは、外国の文物は、日本語に翻訳するのではなく、外国語のまま理解するやりかたのほうが主流だったのではないでしょうか。つまり、カソリックの僧侶がラテン語のままバイブルを理解しようとしたように。
「ヤマトコトバ」で描かれた「古事記」と、「漢文」で書かれた「日本書紀」とが、日本最古の統一的な史書としてほぼ同時に編まれたことは象徴的です。以来、江戸時代まで、日本人の教養は、「和歌」の素養と「漢詩」の素養とが車の両輪のように並列的に求められ、漢文は漢文のまま、和文は和文のまま、学ばれました。
 漢文を和文に翻訳して理解する道は選ばれませんでした。
 そう考えると、日本でも江戸時代までは、それなりに「言霊信仰」が生き存らえていたと言えるような気がします。

 ところで、明治以降の文明開化、世界文明の摂取は、ひとえに「翻訳」のたまものだ、と言っていいのではないでしょうか。
 すべては外国語を日本語に置き換えることで、外国の文化も文明も我々は自分の中に取り入れて来ました。
 しかし、それは見方を変えれば、「言霊」の虐殺だったのではないでしょうか。
 つまり、コトバは霊力を失い、ただ情報を相手に伝えるためだけの道具に成り下がってしまった。
 それが悪いことだったのか、それとも良かったのか、性急に結論を言えるようなことではありませんが、ともかく、我々が、ごく当たり前なものとして受け入れている「翻訳」というものは、よく考えてみると、コトバの世界では、まさにコペルニクス的な大変動だったのではあるまいか、という気がします。

 ここから先は、いわば付記になりますが、お経の話のついでに付け加えれば、私たちがお経といえばまず思い浮かべる「般若心経」は、前述の「西遊記」の「三蔵法師」が天竺から持ち帰って、自分で当時の中国語にしたものが、いまでもそのまま用いられているのだそうです。
 天竺……つまりインドから持ち帰ったお経はサンスクリット語で書かれていたのですから、それを現在ある漢文のお経にしたのは勿論「翻訳」ですね。
 その意味では、サンスクリット語の言霊は、その時点で失われたことになります。
 また、バイブルも、イエス・キリストは、当時のユダヤ人のコトバ……アラム語かヘブル語かで説教し、それを聴いた十二使徒が、やはり現地語で信徒たちに口頭で語って伝えていたのだそうです。
 それをパウロがラテン語に翻訳して文書化したのが、最初のバイブルなのだそうですが、そうだとすると、その時点で、ユダヤ人の言霊は失われたことになりますね。
 このケースは両方ともローカルなコトバから当時のグローバルなコトバへの翻訳です。当時の中国もローマも、世界帝国でしたが、ユダヤ人のコトバもインド人のコトバも、それに比べればローカルです。小さな処のコトバから大きな処のコトバへと移るぶんには、言霊もあまり抵抗がないのでしょうか。
 どうやら言霊ってヤツも、けっこう大国主義的ですね。

                               

 
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