隠居のうんちく



 
                         古今東西の道

                               

 道といえば、私がまず思い浮かべるのは、例のオイディプス神話の中に出てくる「道」です。
 成人に達したオイディプスが馬車で山道を行くと、向こうから別の馬車がやって来て、どちらの馬車が道を譲るかで喧嘩になり、その結果、オイディプスが相手の馬車の主を殺してしまいますが、その時は双方とも知らなかったが、実は彼が殺した相手は彼の実の父のライオスで、ここにアポロンの予言の一つが成就することになります。
 この話を知った時私は、いくら野蛮な時代でも、どうも納得がいかないと思いました。たかが道を譲る譲らないといった程度のことで殺し合いが起こるとは、まるでヤクザの、それもチンピラの世界の話みたいじゃありませんか。
 この疑問が氷解したのは、かなり後に古代ギリシャの道についていささかの知識を得た際でした。
 古代ギリシャの主要な道は、舗装などはされていなかったのは勿論ですが、舗装の代わりに馬車の轍の幅である一六〇cm 間隔で、三〇cm の深さの溝が、二列にずーっと掘り通されていたのです。
 つまり当時のギリシャの幹線道路はいわば馬車の単線線路みたいなもので、どちらかの馬車を線路から持ち上げて道端へ移さなければ擦れ違いは出来ないシステムになっていたのです。
 そうだとすれば、オイディプスたちの場合でも、一方は自分はコリントスの王子だと信じている青年と、一方はテーバイの現役の王である老人との衝突で、相手の馬車を通す為にどちらの馬車を持ち上げて軌道から外すか、という問題は、これはもう当時としては国際紛争の一つであり、国の威信を賭けて、そうおいそれとは譲れなかった筈です。かくて、実は父と子である二人が、それと知らずに殺し合いをするという羽目に陥ったのでした。これもひとえにギリシャの道の特質から生じたものだったのです。
 そんな道を含め、総じて古代ギリシャの道は、海岸線に沿って自然な曲線を描く道だったようです。つまり普通の交通や流通は主として海路が用いられ、海が荒れたりした際の補助として陸の道が機能していたのでしょう。

 それに反して、ローマの道の特徴は「直線」と「水平」でした。山は掘り崩し谷には橋を架け、とにかく目的地まで最短距離を直線的に繋ぐのがローマの道のコンセプトでした。軍隊は、戦場へ出来るだけ早くまっすぐに到着するのが勝利のヒケツでした。
 それは自然に対する人間の優位を表すシンボルでしたし、同時に人間に対する権力のシンボルでもありました。つまり軍隊が最も早く戦場に着くためのものだったのです。自然のシンボルが曲線であり、人間の……つまり権力のシンボルが直線と水平だったのです。
 前にも記したことがありますが、ローマ軍はどこかの土地を占領して戦いが終わると、直ちに兵士たちを道路作りに動員することにしていました。それはひとつには軍隊を動かすのに最も役に立つのは道だったからでもありますが、同時に兵士というものは戦いのない時にはロクなことをしない、実に厄介な存在だということを、当時の権力者がよくわきまえていたせいでもある、ということです。だから戦いが終わったらすぐに兵士らに道路作りという仕事をあてがって、悪いことをするヒマを与えないようにしたというわけです。
 かくて「すべての道はローマに通ずる」と言われるほど古代ローマ帝国は道の建設で名を馳せることになりました。
 ギリシャ、ローマの時代には、道というものは名誉と尊崇の領域でした。道の十字路にはアポロンの祭壇がしつらえられ、道端は名誉ある市民の墓の築かれる場所でした。

 ローマ帝国が衰え、ゲルマン民族の大移動が起こる頃から、道の価値観が変わってきました。ゲルマン人たちにとっては、道の十字路は絞首台を築く場所でしたし、道端は犯罪者を埋める場所になりました。彼らにとっては、ローマ時代から中世にかけて、道とは「軍隊」と「税官吏」と「お上の飛脚」の来る道でした。この三者のもたらすものは常に民衆にとってはロクでもないものでした。道は民衆のものではなかったのです。民衆には道はイヤなものだったのです。
 中世から近世にかけて、ヨーロッパでは「道」の衰退の時代でした。支配者の権力が衰えると、道も衰えるのでした。当時の道は追剥ぎと山賊の道でした。

 一九世紀は汽車、列車の時代です。道は「線路」になりました。
 二〇世紀は自動車の時代です。道は「自動車道路」です。
 二〇世紀後半は航空機の時代です。道は「空路」です。
 道の変遷によって、社会のステイタスシンボルも変わりました。
 それは、古代では、「神殿」でした。
 それが中世、近世になると「宮殿」になりました。
 一九世紀のステイタスシンボルは「終着駅」でした。テルミニは豪華壮大な規模を競い合いました。
 二〇世紀のそれは「モータープール」です。
 二〇世紀後半は「空港」がステイタスシンボルになりました。

 ところで、日本の道はどうなのでしょうか。
 日本では陸上交通がメインだった時代は過去に二回ありました。
 一つは西暦七〇〇年以降の「律令時代」。
 この時代には七道(東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道)が設けられ、それぞれ幅十数メートルの直線道路で、まさに古代ローマ的な軍用道路でしたが、早くも五〇年後には荒れ始め、一〇〇年と保ちませんでした。あとは未整備の唯の民衆の道になってしまったのです。
 第二の時代は明治維新以降です。
 この二つの時代を合わせても、我が国では古代以来一三〇〇年のうちで、陸上の道が主流を占めた時代は、なんとたったの一七〇年だけなのです。それ以外は、交通機関の主流は海上の道でした。
 そして、我が国で陸上交通が主流を占めた時代は二回とも、「道」は軍事的な意味が優先された時代でした。

                               

 
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