隠居のうんちく



 
                         平安時代の広域やくざ

                               

 だいぶ前になりますが、北海道の鮭漁の取材に、道東へ出かけたことがありました。
 その時、鮭の密漁問題についていろいろ知りました。鮭漁の解禁日直前にごっそり捕られたり、正式な鮭の定置網から夜陰に紛れてそっくり持って行かれたり、しかも見つかってもすぐには逃げず、監視艇が網にたどり着く寸前まで獲物を積み込み続け、着いたとたんに監視艇とはケタが違う高速エンジンで逃げ出して、あっというまに姿を消してしまう……と言って、地元の漁師さんたちは地団太を踏んでいました。おまけに、せっかく警官に同行してもらって現行犯逮捕しようとしても、船に慣れないお巡りさんが船酔いで使い物にならなくなる、とぼやいてもいました。
 しかし、魚や野菜や果物のような生鮮食品は、漁協や農協のような機関を通して集荷し、中央や地方の卸売り市場を経て消費者のもとへ届きます。新鮮さがイノチですから、全国的な迅速な流通網なしでは、いくら沢山集荷しても、腐らすだけなのです。
 そして、不法な手段で手に入れた大量の獲物をどこかの漁協や農協へごっそりと持ち込めば、たちまち出所がバレてしまいます。
 ですから、従来は、例えば鮭でも、数尾くらいずつなら密漁もあったし、やる意味もあったが、一網全部盗んでも、捌きようがなく、やっても意味がなかった。
 ところが、この頃は一挙に多量の密漁が増えた。しかも、どこの漁協や魚市場へも獲物が現れない。
 ということは、密漁者は独自な自分だけの、しかもかなり広域の販売流通網を持っている、ということになる。
 こんな話を聞いたのは、前述のようにずいぶん前のことですが、それを思い出したのは、最近ナシやブドウなどが果樹園から一夜のうちに大量に盗まれたり、お米までがごっそり盗まれた、などというニュースをたびたび聞くようになったからです。
 この場合にもいちばんの問題は、それだけ大量の生鮮食品を正規のルートを通さず迅速に広域に運び売りさばくことが出来る、非合法のネットワークの存在なしではこんなことは到底考えられない、ということなのです。
 そして、そんな非合法な広域のネットワーク、といえば、まず真っ先に念頭に浮かぶのは、例の「広域暴力団」と呼ばれる組織ではないでしょうか。

 ここで、突然話題が変わりますが、最近私が、なるほど、と目からウロコが落ちたように感じたのは、ある新聞のコラム記事にあった「武士階級は平安時代のヤクザだった」という一行でした。
 なるほど、そう言われてみると、武士階級の出現について私がかねがね感じていた疑問の多くが、たちどころに氷解します。
 例えばブルジョワ階級による政権奪取といえばフランス革命、とか、労働者階級によるそれはソビエト革命、とか、それなりのイメージが浮かびますが、でも武士階級って、何処からどうして涌き出て来たんだろう、というのが年来の私の疑問でした。
 ちょっとこんなふうに考えてみてください。
 平安時代の後半、例えば相模県なり武蔵県なりの知事さんはイシハラさんだったが、当人は都を離れず、にょしょうに和歌なんかをきぬぎぬに送ったりしていた。そして、県民税は地元の有力者のヤマモトに取り立てを委任していた。だが、都のオトドのコイズミさんのパワーが衰えてくると、相模県にも山住組というヤクザが勢いを増してきて、県民にミカジメ料とかショバ代とか称して勝手にオトシマエを取り立て始めた。県民は二重払いにヘキエキして、県民税の方を滞納し始めた。地元のヤマモトは困って、山住組の親分に県民税の徴収を請け負ってくれ、と頼んだ。くれるのは八ガケでいい、二割は手数料にとっときな、と、どうせコイズミのものになるんだから、と気前よくはずんだ。
 はじめは徴収した県民税の八割を渡していた山住組組長も、だんだんアホくさくなって、ヤマモトに渡す分も次第にアバウトになっていった。こうして、山住組は実力を蓄えていった。
 やがて、それは、他の県、他の地方のヤクザと手を結び、或いは吸収合併してゆき、ついには源氏という広域暴力団へと発展していった。同じように、別の地方では平家という広域暴力団が育っていった。
 ところで、そのヤクザの山住組のいちばんの初めは、どうやら遊芸人だったらしいのです。遊芸人といっても、シナシナと踊ったり歌ったりする方ではなくて、ほら、昔の祭りの縁日なんかには、例えば長刀の居合い抜き、とかナイフ投げ、とか、力自慢の見世物とか(「ジェルソミーナ」という往年の名画でアンソニー・クインがそんな芸人を演じていました。)、ガマの油売りとか、いろいろありましたが、そういった、武器を操る芸能のほうです。
 その名残が、今も残る「流鏑馬」の芸とか、武士の鎧のきらびやかさとか、源平時代の名乗りを挙げ合っての一騎打ちとか、に窺えるのだそうです。いわば、古代ローマ時代の剣闘士のような命がけの芸人だったのでしょう。それが、自分の芸を権力と組織力に使うことを覚えたのが、ヤクザの発生の端緒だったのだそうです。

 平安時代の権力争いは、それなりに優雅でした。なにしろ、自分の娘を天皇の奥さんにして男の子を産ませることが権力を握る手段だったのですから。
 ところが、或る時から俄かにそれが一挙に血なまぐさいものになりました。
 それは一一五六年の保元の乱です。崇徳上皇と後白河天皇との権力争いなのですが、この時初めて、争う両者がそれぞれ武士たち(つまり広域暴力団)をそのために使ったのです。いわば、今で言えばコイズミさんが山住組を、そしてカンさんが口吉連合を、それぞれ首相選に使ったようなものですね。
 おかげで、今までの権力争いには見られなかった壮絶な殺し合いが起こり、しかも事件の決着の際にも三〇〇年来絶えていた死刑まで復活しました。しかも、その結果、国家権力までが、ヤクザの力を利用しようとした貴族の手から、ヤクザそのものの手へと奪われてしまったのです。
 その後五〇〇年間の権力争いには、常に大量の血の雨が降るようになりましたが、その幕開けは、まさにこの時、つまり国家権力の争いにヤクザが加わったときだったのです。
 時代劇などで、家来が殿様の前で平伏するのを見る度に、私はなんだか腑に落ちないような気がしたものですが、しかし、武士はヤクザだ、と思ったとたん、あの平伏が急に納得がいく気がしてきました。ヤクザの親分の前だったら、下っ端の子分があのくらい平伏しても無理ないな、と思えるのです。
 また、私はかねがね、鎌倉時代の武士同士、仲間同士、身内同士のあのすさまじい殺し合いの連続が、どうにも理解出来なかったのですが……そうか、あれはヤクザ同士の出入りなんだ……と思ったら、とたんに急に理解出来たような思いがしました。
 私はかねがね、二一世紀のファッシズムは宗教の形でやって来るのではないか、と思っていましたが、この頃、もう一つの形もあるかも知れない、と思うようになりました。それは、ちょうど中世に武士が権力を握ったように、現代の広域暴力団が国家権力を握る、という形です。
 もしそういう形が実際に実現するとしたら、それは、国家の権力を争うものたちが、互いにヤクザの力を利用しようとしだした時でしょう。ちょうど保元の乱の時のように。

                               

 
閉じる