隠居のうんちく



 
                         万物は逆転する

                               

 社会全体の価値観が一夜のうちに正反対に逆転した瞬間に立ち会った世代も、次第に生き残りが少なくなってきました(というふうにジジイ性をひけらかすことにネガティブな快感を覚えるようになった今日この頃です)。
 昨日までは、自由主義は危険思想だ、一億一心、天皇陛下の御為に滅私奉公、尽忠報国、上官の言葉は天皇陛下のお言葉と同じだ、反論は天皇陛下への不忠すなわち非国民の仕業であり、万死に価する……と毎日声を嗄らして教えていた、その同じ先生から、次の日からは、全体主義は悪魔の思想だ、一人の人間の命は地球より重い、個人の人権こそ全てに優る、すべての人間は平等だ、自由な討論による多数決が唯一の正義だ……とやっぱり声を嗄らして教えられた中学一年生が私でした。
 ところがどうやら、遥か上古のギリシャでも、それと同じような瞬間があったらしいと、ある時私は知りました。
 フロイトが精神分析学の用語(エディプスコンプレックス)として借用してから、ヘンに有名になったギリシャ神話の「オイディプス王物語」は、あらためて考えてみるとなんだか奇妙な、おぞましい、カタルシスも感じられない、不愉快な悲劇です。「お前の息子は父を殺して母を娶る」などという予言を、なんで神様がわざわざテーバイ国のライオス王に告げなければならなかったのでしょう。いやその前に、なぜ神様が或る親子にそんなヘンな運命を与える必要があったのでしょう。そして、なぜ国家が(当時は神前の円形劇場で上演される悲劇は国家事業でした)わざわざそんな不愉快な話を民衆のまえで上演して見せなければならなかったのでしょう。なにしろ、ライオスはそんないやなことをされたくない、オイディプスはしたくない、と両者が必死に努力すればするほど、結局予言通りになり、最後はオイディプスは自分で自分の両目を抉り出して家出し、荒野で野たれ死にするのですから。
 以後はすべて又聞きで、私のオリジナルではないのですが(まあ、私のウンチクはすべてそうですけれど)、どうやらオイディプス王物語のいちばんの目的は「男王を殺すのはこの世の中で最大の罪である」という民衆へのプロパガンダだったらしいのです。そしてその宣伝のアピール度を高めるために、その話に尾ひれをつけて、「母と交合して子ができる」とか「自分の目を抉り出す」「野垂れ死にする」などと、いやがうえにもおぞましく厭わしいデテールを付け加えた、ということらしい。
 でも、王国にとっては当たり前としか思えないそんな罪について、なんでわざわざそんなプロパガンダをしなければならなかったのでしょう。その訳はつまり、それ以前には「そうではなかった」からです。(一九四五年以降「全体主義は悪だ」と大々的に宣伝しなければならなかったのは、それ以前にはそう思われていなかったからです。)
 そうです、「それ以前」のギリシャでは、この世の中で最大のタブーは、男王ではなく「女王」を殺すことだったのです。
 ここでちょっぴりレクチュアめいたことをしなければならないのですが、ギリシャ地域では、BC三〇〇〇〜(エーゲ文明)も、BC一九〇〇〜(ミュケナーイ文明)も、ともに「母系社会」でした。ところが、三〇〇年ばかり続いた「暗黒時代」の後の、BC八〇〇〜(古代ギリシャ文明)は、「父系社会」に変わっていました。
「母系社会」(南方地中海系民族)と、「父系社会」(北方遊牧系民族)との違いの一つは、「母系」は王位が女王から、娘、孫娘というように女系の血族に継承されます。(「女系」と「女権」とは違うようで、母系社会では国家権力は「女王」ではなく「女王の夫」が握るのです。)
「父系」は王位が男王から男の血族に継承されます。権力も男王が握ります。
「母系社会」での権力の交替は、例えば次のように行われます。
 ミュケナイ国では、女王クリュタイムネストラの夫タンタロスが国権を握っていました。ところがやがて老いたタンタロスを若いアガメムノンが殺し、女王と結婚し、国権を握りました。ところが後にそのアガメムノンは(トロイ戦争の総大将として凱旋したとたん)若いアイギュストスに殺され、殺した若者は女王クリュタイムネストラと結婚して国権を握りました。
 これは、べつに非常に特別で例外的なケースなのではなく、当時はごく普通な権力交替の方法だったのでしょう。つまり「母系社会」では権力者が盛りを過ぎる(パワー不足や、マンネリになる)と、こんな方法で権力がリフレッシュされるわけでした。「女王の夫」は中古になるといくらでも取換えが利くのです。でも、そのためには「女王」が健在であることが必要です。「女王の夫」は取換えが利きますが、彼らが権力を握るには、まず「女王」と結ばれる必要があり、その「女王」は取換えが利かないのです。ですから「女王の夫」を殺すのは必要とあれば構わないが、「女王」を殺すのは最も重い罪でした。
 そんなイデオロギーの名残は、前述のミュケナイの物語の後半にも見られて、アガメムノンが殺された後、彼の息子のオレステスが、父の敵のアイギュストスを殺すと同時に母のクリュタイムネストラも殺します。(アガメムノン殺しは、アイギュストスとクリュタイムネストラとの共謀だったからです。)そのため神罰を受け、オレステスは気が狂い永い間蠅の群れに付きまとわれつつ放浪せねばなりませんでした。それは表面的には息子の母殺しが罰せられたように見えますが、その本質は、「女王殺し」の罰の変形らしい。
 ところが、この母系社会のイデオロギーは、父系社会に変わった後の体制にはまことに具合が悪い。新しい社会では「最大の悪は女王殺しではなく男王殺しだ」という人民への啓蒙を徹底させねばなりません。一九四五年以降「最大の悪は自由主義ではなく全体主義だ」という啓蒙を徹底しなければならなかったのと似ています。
 しかし、支配者がいかに変わったからといって、人民の方はおおむね以前と同じ顔ぶれですから、何千年も教え込まれてきた価値観を一朝一夕にハイそうですかと切り替えられるものではない。
 そこで支配者としては、手を変え品を変えてプロパガンダをする必要が生まれ、その一つが「オイディプス王物語」だったというわけです。
 オイディプス王物語のうわべの仮面をちょっと剥がして読み直してみましょう。
 それには「父」を「老いた男王」、「母」を「女王」、「息子」を「若い男」に置き替えるだけでいいのです。するとこの物語は、次のようになります。
「父は息子を殺そうとする」……「老いた王が若い男を殺そうとする」
「息子は父を殺す」……「若い男が老いた王を殺す」
「息子は母と結婚して王となる」……「若い男は女王と結婚して王となる」
 この下側の記述を繋げると、そのまま前述のミュケナイのタンタロス――アガメムノン――アイギュストスという政権交替劇とそっくりになります(実はタンタロスもその前の王を殺して女王クリュタイムネストラと結婚したのですが)。つまり、かの「オイディプス王物語」は、女王国時代だったらべつに珍しくもない当たり前の物語の一つになってしまうのです。
 事実、オイディプス物語の一番古い原形では、どうやら彼はじぶんの妻が実の母だと判ってからも別にどうということもなくそのまま王位に就き続け、天寿を全うした後は、彼と母との間の息子が次の王となった――ということになっているらしい。
 私が思うには、この原形の示しているのは、むしろ「王となるためには、たとえ女王の実の息子であっても、女王の夫を殺し女王と結婚しなければならない」というメッセージだったような気がするのです。つまり物語の原形は、肯定的な物語だったのです。それが、前述の欄の上側のような否定的でおぞましい物語に改ざんされたのは、繰り返しになりますが、改ざんされた時には、物語の原形が出来た時代と、イデオロギー的に正反対な時代になっていたからでしょう。
 逆転以前には、王国にとって「女王」は掛け替えのない絶対的な存在だが、「女王の夫」は都合によってはいくらでも取換えが利く存在だった。
 逆転以後には、「男王」が掛け替えのない絶対的な存在で、「男王の后」は取換えが利くようになった。
 まさに前代の善は後代の悪、前代の悪は後代の善……時代が変わり政権が変わるごとにこのように価値観が逆転する。現代だけがそうなのかと思ったら、なんと古代でもそうだった。いや、歴史の始まりから、きっと終りまでずうっとそうなのでしょう。
 としたら、善悪とか価値観とかいうものは、いったい何なのでしょうね。
(今回はさすがにネタ本を記しておかねばマズイでしょう。その一つはリーアン・アイスラー著「聖杯と剣」、もう一つは三枝和子著「男たちのギリシャ悲劇」ですが、引用しているうちにどこまでが引用で、どこからが私のコジツケなのか、自分でも判らなくなりました。)

                               

 
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