隠居のうんちく



 
                         ゴンドラ談義のどこが悪い!

                               

「朱の唇に触れよ、誰か汝の明日猶在るを知らん。恋せよ、汝の心の猶少なく、汝の血の猶熱き間に」
これは森鴎外訳のアンデルセン作「即興詩人」の一節です。
これを読んで、みなさま、何かを思い出しませんか? そうです、黒沢明監督の名作「生きる」にも登場する、あの「ゴンドラの唄」の歌詞です。
「命短し恋せよ乙女、赤き唇褪せぬ間に、熱き血潮の冷めぬ間に、明日の月日はないものを」
実はこれは「即興詩人」の同じ箇所を吉井勇が歌詞として翻訳したもの(または鴎外訳を吉井流にアレンジしたもの)なのです。だから似ているのは当たり前です。ナァンダなどとおっしゃらないで下さい。話はこれからです。
かねてから、私は深い疑問に捉われていました。「ゴンドラの唄」と言うけれど、歌の何処にもゴンドラなんか出て来ないじゃないか。歌の二番を読んでも三番を読んでも、ゴンドラなんか影も形も出て来ません。それなのに、なんで「ゴンドラの唄」なんだ!
やがて私はこの永年の疑問が氷解する瞬間がやってきました。この歌は、戦前、わが国の新劇草創期に築地小劇場で松井須磨子主演で上演された、ツルゲーネフ原作を翻案したドラマ「その前夜」の中で用いられた歌なのです。劇中では、ベネチアへ駆け落ちした若い二人が泊まったホテルの窓下の運河に浮かぶゴンドラの上で、船頭がこれを歌いました。
「ゴンドラの唄」と聞けば、誰だって「ゴンドラについて歌った歌」だと思うでしょう。ところがこれは、「ゴンドラから歌われた歌」という意味だったのですね。だからゴンドラについて一言も出て来なくても不思議ではないのです。
なぜこんな歌が、こんな所でゴンドラの船頭によって歌われたか、といえば、それは、「即興詩人」の中で、主人公のアントニオがこのベネチアの里謡を聞いたのがベネチアへ向かう船の中だった、と記されているからでしょう、多分。
こうしたいきさつを知って、わたしはどんなに嬉しかったことか! ついに永年の疑問が解けたのです!
しかし考えてみたら、それについて誰かにうん、判った。だけどそれがどうしたの?≠ニ訊かれたら、私はなんと答えたらいいのでしょうね?
実はまさにその通りの体験を私はしているのです。或る催しに私が招かれ、一席の小講演をする羽目になったことがあります。その時、私はこの話をしたのです。ウケませんでしたネェ! みんな、シラーッとして、むしろ怪訝そうに私を見ているのです。全員の顔に「それがどうしたの?」という字が書いてありました。
その時です、私が開眼したのは。私がつくづく会得したのは「私にとってこの上なく興味のある問題は、必ずしも全ての人に興味があるとは限らない」という真理です。(こんな判りきった真理をこの時まで会得していなかったことの方が問題でしょうね)
でも、実はこれがきっかけなのです、私のうちに「作者と読者の間には深くて暗い河がある」というテーマが生まれたのは。
ところで私がこの文を書いた目的は、こんなグチではありません。私が言いたかったのは、こんなゴンドラふうのテーマこそが、「横丁のご隠居学」の神髄ではあるまいか、ということなのです。
その神髄の、
一は、客観的には愚にも付かないこと。
二は、にも拘らず、当人は独りで飽くまでも拘り、究明に異常な熱意を傾けること。
三は、解明された際、当人は天にも昇る思いがすること。
四は、解明されたにも拘らず、他人からみたら、やっぱり愚にも付かないこと。
五としてつけ加えれば、その熱意にも拘らず、そこには何一つ自分で発見したことはなく、すべては聞きかじり、読みかじりの中からかき集めたものであること。
因みに、「ゴンドラの唄」と「即興詩人」との関係は、雑誌「本」(講談社刊)二00二年五月号の安野光雅氏の「水の都」で知りました。「その前夜」関係は、ごめんなさい、どこで読んだのかすぐには思い出せません。このようによろずウヤムヤなところがまた横丁のご隠居学の特徴なのですが、しかし現実の文章モラル上では、そうもいかないでしょうね。

 追記
 二 いのちみじかしこいせよおとめ
  いざてをとりてかのふねに
  いざもゆるほほをきみがほほに
  ここにはだれもこぬものを

 ごめんなさい。右に記したのは「ゴンドラの唄」の第二番です。
「かのふねに」と、ちゃんと船が出てきます。
 本文で「唄の二番を読んでも三番を読んでも、ゴンドラなんか影も形も出て来ません」と言い切ってしまいましたが、影ぐらいは出て来ていますね。
 でも、「即興詩人」の中で、この唄が歌われたのは、ベネチアへ向かう船の中でしたから、その船はゴンドラではなくて、もっと大きな連絡船だったのでしょう……というのが負け惜しみの強い筆者の言いわけです。
 ともあれ、「ゴンドラの唄」の中にはゴンドラという言葉が使われていないことだけは確かです……と、隠居の負け惜しみはあくまでも続きます。

                               

 
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