「横丁のご隠居さん学」というジャンルを、私は提起したいと考えています。これは別にご隠居さんを研究する学問ではなく、いかにも横丁のご隠居さんがやりそうな学問という意味です。
落語に登場する横丁のご隠居さんは、長屋の八つぁんや熊さんを相手にして、何かというと蘊蓄を傾けて講釈を垂れたがります。
ところで横丁に隠居するような人というものは、大抵、裸一貫から身を起こし、まあまあこぢんまりした店の一つも張るまでになって、息子に家督を譲り、息子もそれなりに商売を維持している、といったふうな身の上が想像されます。代々の大店のご隠居だったら、それこそ根岸の里あたりの瀟洒な寮などで優雅な余生を送っており、せせこましい横丁で隠居生活などやってはいないでしょう。
それにひきかえ、横丁のご隠居さんは、苦しいたつきの中で、年少のみぎりから丁稚奉公に出されたりして、以来永年身を粉にして働き続け、やっと楽隠居の身になるまでに、受けた教育といったら、精々が幼い頃寺小屋で読み書きそろばんの手ほどきを受けた程度、と思っていいでしょう。つまり系統的な教育の基礎といったようなものは身に着けていない、ということです。
そんな人種が、俄に隠居して暇になり、所在無さのあまり、手当たり次第にかわら版やら草双紙、通俗教養書、聞きかじり、引用のそのまた孫引き、寄席の講釈師の口跡、等々から知識をかき集めた結果、出来上がった雑学が、つまり「横丁のご隠居さん」学です。
従って、その知識は脈絡とか関係とかに乏しく、いわんや理論体系とか思想的一貫性など望むべくもない。だから、八つぁんや熊さんにその話題に関してちょっと突っ込まれたりすると、たちまちしどろもどろになり、苦し紛れに奇想天外なこじつけをやってのけたりもします。その点、落語は横丁のご隠居さんの生態を見事に描破しているのでしょう。
しかし、最近私は、こうした彼らの学習態度をむしろ見習うべきではないか、と思うようになりました。勉強とか研究とかと言うと、うっかりするとつい役に立つことをやりたくなりがちで、そうするといつのまにか遊び心が無くなってしまいます。遊びとしての勉強というものは、かえって案外難しいものです。
ところで、ルネッサンス時代のヨーロッパでは、「学問」とは娯楽の一種と考えられていた、ということです。「産学共同」などという概念とは、それはまさに対極をなす発想法です。
社会教育とか生涯教育とかが昨今隆盛なのは、まことに喜ばしいことです。ただ、それを求める人々が、教養を高めるため、とか、系統立った知識を身に着けるため、とかと思い過ぎると、なんだかいま一つ詰まらない勉強になりそうな気がするのです。
そういう場合はどうしても偉い先生に講義していただいて、謹んでそれを拝聴する、という受け身な形にならざるを得ません。つまり、雛が口を開けて餌を待つように、教養や知識を注入して貰うのを待つしかないのです。
それにひきかえ、横丁のご隠居さん的に「学問」する場合は、すべてこれ自主と積極あるのみ。自分で、自分が興味を惹かれたことだけを、自分のやりたいように、研究するのだから、これは面白いですよ。……まあ、たしかに、教養の足しにはあまりならないし、うっかり蘊蓄をひけらかそうとすると、とんだ恥をかく危険がありますがね。
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