『書く人はここで躓く』こぼれ話              
            横浜ペンクラブにおける講演


 宮原でございます。                    
 このたび『書く人はここで躓く』という本を出したのですが、そ
のこぼれ話というか、失敗談というか、そういうことを話していこ
うかと思います(拍手)。                  
 この本を出してよく言われるのは、「小説の書き方を書くヒマが
あったなら自分で小説を書け」と言われることです(笑)。私にと
って一番耳が痛いことであります(笑)。
 こういう本を出すということは「天に唾をする」ようなもので、
おまえがやるなということをおまえの小説のここのところでやって
るじゃないか、と必ずそういうことを言われるものです。    
 なぜこういう本を出すことになったのかと言いますと、私にはい
 くつかの小説を書くサークルでみなさんの作品を読ませていただき、
そのアドバイスをするチャンスが増えて来ました。そうしているう
ちに<こういうひどい小説はどうしたら書けるのか>(笑)という
興味が出て来ました。                    
 私は子どもの時、壊れた傘を直すのが大好きでした(笑)。また
自転車のパンクを直すのも好きでした。そういうことと文章を直す
こととがつながっているのかも知れません。          
 いい小説を書くよりも゛こわれた小説″を修理する方が向いてい
るのかも知れません。そんなわけでこういう本を出してしまいまし
た。                            
 『そして』(文芸誌・宮原氏は編集人の一人)でこれを連載し、
それを一冊の本にまとめていただいたのです。         
 本にする時、編集スタッフと打ち合せをしたのですが、その時貴
重な意見が出て来ました。それはフィクションと事実との間の関係
についてです。                       
 ボクは「フィクションは“クレジット・小切手”である。事実と
いうのは“現金”だと思う。だから“現金”があるのにわざわざ“
 小切手(クレジット)”を使うことはないじゃないか」──つまり、
事実の中に非常によいことがあるのに、それをわざわざフィクショ
ン化することはムダである──これの比喩として『現金──クレジ
ット』の話を書いたのです。                 
 そしたら、「宮原さん、あなたは経済学の初歩も知らないね」と
言われたのです(笑)。                   
「クレジットというのは現金がないから仕方なく使うものじゃない
のですよ」と言われてガクッと来ました。そこで、その比喩という
か例え話は削除させていただきました。さらにスタッフから言われ
たことは「あなたの譬え話は、すればするほどわからなくなる」と
いうことでした(笑)。                   
 あと大失敗したことはまだあります。            
 この本の中には、みなさんの習作を実例として挙げさせていただ
いたのですが・・・・小説というのは、設定、展開、新局面によって成
り立っているのですが、ある人の場合──その設定を伏せておいて
一番最後になって設定をつけた──というのがありました。そこで
「これはいけません。設定の後出しというのはフェアじゃない」と
いうことを、その人の作品を実例として出したのです。     
 ところが、その作者から抗議が来たのです。「そこのところはち
ゃんと初めから書いてある。」というのです。その作品は20年前に
読んで添削をして本人に返してしまってるので私の手元にはないの
です。ウロ覚えの記憶で書いてしまったのが失敗の原因でした。 

 この本のタイトルにもなっているのですが、実は書く人って自分
が躓いているとは思っていませんね。みんな傑作を書いたと思って
いる。これが読者にウケないのは読者が悪いと思っているのです。
初心者ほど自分が失敗作を書いているとは思いません。自戒を含め
て自己評価ほど難しいものはありません。           
 これのいい例として、作家の阿川弘之さんが『文藝春秋』に書い
ていたことをご紹介します。それは、落語家の古今亭志ん生さんの
芸談の中の話です。「あいつの芸はオレより落ちるなア」と思った
ら、その人の芸と自分の芸は同じレベルである。「あいつはなかな
かのものでオレと同じくらいかな」と思ったら、向こうの方が上と
いうのです。「うまいなあ」と思ったら、追いつけないほどの差が
あるということだそうです。                 
 それほど自己評価というのは難しいのです。         
 今までの他の方たちの小説作法の本とこの本との違いは、他の方
たちのは名のある人のいい文章を引用して「これはなぜいいのか」
と分析しているのが殆どです。ところが、この本は殆ど名のない人
の失敗作ばかりをとりあげています。早い話が「他人のふり見てわ
がふり直せ」なのです。そこがこの本のユニークなところかも知れ
ません。同じ失敗でも自分がやると気がつかなくて、ヒトがやると
よく目につくものです。他人の失敗をみるということが非常に大事
なのです。                         

 白洲正子さんが陶器の鑑賞についておっしゃったことで記憶に残
る話があります。                      
 「あるレベルの陶器を持っている人はそれ以下のレベルの陶器は
よくわかるが、それ以上のレベルのものはわからない。そして、そ
れよりもっと上のレベルのものを見ると自分が持っているものがそ
れより劣るということがよくわかる」というものです。     
 最高のランクのものを見ると、自分の持っているものがどのラン
クに属するかということがわかるというのです。自分より上のレベ
ルを見ないと自分のレベルがよくわからない──この事も大事なの
です。つまり、両方必要なのです。名作も教材とするのも必要かな
あと思っているところです。                 
 この本を読んだら「こわくなって小説が書けなくなった」という
人もいます。そういう時は「書く時はこの本のことは念頭におかず
に書きたいものを書くべきです」と申しています。       
 俳聖・芭蕉も言っています。「案ずるは常のことなり。事にのぞ
みては間髪を入れず」。                   
 俳句について「ああだ、こうだ」と考えるのはヒマな時にしなさ
い。句会や吟行の時は何も考えずに一発で決めなさいと言っていま
す。                            
 この本を参考にしていただくならヒマな時に読んでいただいて、
実際に書く時は忘れていただきたいのです。          
 ボクなどは書いたあとは「いい仕事をした」と気持ちが昂揚しま
す。ところがしばらくするとつくづくイヤになってきます。自分の
作品を見るのもいやになるんです。あいにくこういう時に校正の時
期がやってきます。この゛倦怠期″に手を加えると、いじくり壊し
 てしまうことがあります。自分の状態をよく見つめることも必要で、
 それをしないと手を加えるほどまずくなってしまうこともあります。
 「小説ってこんなに難しいものとは思わなかった」という人がい
ますが、ボクだっていまだに小説を書くことは難しいと思ってるん
です。                           
 ヘンな譬えですが、今こんなにゴルフが流行っているのは、ゴル
フっていうのが難しいからなんだろうと思います。易しかったら、
たちまちみんな飽きちゃうと思います。そういう意味で小説ってい
うのは、難しいから飽きないのではないかなという気がします。 

 小説の神髄というのは、絶対論理化できるというものではない。
だから、この本が論理的と言われると、お尻がむずかゆい気がしま
す。論理的というのは、ウチの女房に言わせると「屁理屈だ」とい
うんですよ。「あなたは小説を書くより屁理屈の方が向いてるんじ
ゃない」というのです(笑)。そういう意味ではこの本は、“屁理
屈集”かも知れません。                   
  文学の本質についての譬えですが、内田百聞のあのおもしろさは、
ボクがいくら屁理屈が好きだといっても論理化できません。あれは
古今亭志ん生、桂文楽の世界ですよね。落語の至芸を論理化するの
は無理です。                        
 同様に小説を論理化できないのは当たり前ですが、例えば大阪城
 の天守閣は攻められないけど外掘ぐらいは埋められるのじゃないか。
論理化出来ないという前提での話ですが、その周辺を論理で攻めら
れる部分があるのではないか。その範囲を論理でせめて外掘ぐらい
は埋めておきたいなあ──ということなのです。つまり「文学とい
うのは論理である」というつもりでこの本を書いたのではありませ
ん。                            
 またこういう反応もありました。「今まで書きたい事を気楽に書
いていたのだが、この本を読んだら自分の書きたいことを素直に書
けなくなった」というのです。                
 これは私も同感なのです。というのは、ボクが自由に楽に自己表
現出来たのはデビューする前でした。             
 小説というものを知れば知るほど自己表現が不自由になってきた
のです。                          
 この本に書いたことですが、主人公が作者自身であっても主人公
と作者は違うのです。昔の私の古きよき時代の時は、主人公と自分
を一緒くたにして自分の言いたいことを書いていました。しかし小
説の構造、本質というものを知ってくると自分そのものの本質が出
せなくなってくるのです。小説にするにはいろんな制約があるのだ
なあと思いました。白縄自縛ですね。今、自己表現する事が不自由
になってきたなあと思ってます。だから、今、作品は自己表現の道
具でなく、作者というのは主人公の奴隷なんじゃないかと思う時す
らあります。                        

 「いい小説」というのは、作中人物が主人公を含めて、自分自身
で勝手に動き出すようでないと「いい小説」とは言えません。作者
が主人公を引きずり回して「右へ行け」「あっちを向け」と指図し
 ているような小説はあまりいい小説とはいえません。むしろ作者が、
勝手に動き回る主人公に引きずられるようなものが「いい小説」と
いえるでしょうね。                     
 それから困ったことが一つあるんです。それはこの本を読んだ人
が、他人の習作を批評する時、たとえばボクが言っている設定・展
開・新局面ということに基づいて、「この作品は展開、新局面がな
 いからダメだ」という評価をすることです。これは間違いなのです。
評価の基準に使わないで欲しい。作品というものは、読んで素直に
感動したらそれでよいのです。                
 一番困るのは、「私、小説家になりたいのですが、何を書いたら
よいでしょうか」という質問です(笑)。こういう発想のひとが多
いのですが、これはベクトルが逆かなと思います。もう一つ。「あ
たし、こんな珍しいおもしろい体験をしましたので、あなたに材料
としてさしあげますから書いて欲しい」と言われることです。これ
も困ります。その人にとっては貴重な体験だが、私には貴重じゃな
いのです(笑)。                      
 まずモチーフがあって、その自分の強いモチーフによって書いた
ものが小説になり、その結果小説家になるのが本筋なのです。自分
にとってのモチーフは自分で書かなければならないのです。   
 この本についての反応は、小説の世界より遠い世界の人からの方
 が多かった。例えば、建築家の人から「とっても通じるものがある」
と言われました。作者と読老の関係は、建築家とクライアント(注
文主)の関係と同じだというのです。また、作曲、絵、イラストを
作る時と似ているという思いがけない反応もあってびっくりしまし
た。                            
 この本は、小説を書こうとする人以外には見向きもされないと思
っていました。また、ちゃんと書けている人にも見向きもされない
だろう。逆に初心者は自分が傑作を書いていると思っているから、
これまた見向きもしないだろう。だから、きっと売れないし反応も
ないだろうと思っていたのですが、思わぬところから反応があって
おどろいた次第です。                    
 文章教室などで指導している時、初めの頃、失敗したことがあり
ます。それは「文章は冗漫ではダメです。簡潔にしなさい」と言っ
たら、誰も書けなくなってしまったのです。          
 例えば、英会話の教室では「何でも喋りなさい」とやらなくては
会話は始まらない。文章教室もそれと同じなのです。      
 小説でも文章でも冗漫に書くには本当は年期が要るのです。はじ
めから冗漫になんか書けない。普通は言葉足らずの文章が多いので
す。だから、一度冗漫になって、それから簡潔になるのです。  
 そんなことも含めて、この本(作品)は、誰が躓いているのかと
いうと、ボクが躓いているのですよ(笑)。自分が躓いたから他人
の躓きがわかるのです。そういう意味で、この本はボクの反省文集
だと思ってください。(拍手)                


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